GoodNovel

縁が逆転~元カレの叔父が夫~

結婚三周年の記念日。

「楓……本当に、離婚届を作ってほしいの?」

電話の向こうで、早川明里(はやかわ あかり)の声が少し掠れた。迷いと心配が滲んでいる。

「よく考えて。サインしたら……もう大輔とは、戻れないよ?」

桜井楓(さくらい かえで)はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。ウイスキーは喉を焼く。けれど昨夜の光景だけは、脳裏に焼きついたまま離れることはなかった。

握り締めたスマホが、手汗で少し滑った。

「うん」楓は短く言った。「彼から離れることにしたの」

「どうして……?大輔、楓には優しかったじゃない。愛されてるって――」

その言葉に、楓は笑いそうになったが、喉の奥で押し殺した。愛だって?なんて面白い冗談だ。

通話を切ったあと、楓は窓の外へ視線を投げた。向かいの高層ビルに設置された巨大なLEDが、あの記者会見を何度も流している。

完璧なスーツに、完璧な笑顔。桜井大輔(さくらい だいすけ)はネックレスを持ち上げ、誇らしげに宣言していた。

――世界最高級のダイヤと宝石で、妻のために唯一無二のジュエリーを作りました――名付けて、「愛の楓」。

記念日のプレゼント。永遠の愛。その綺麗な言葉が、楓の胃をきりきりと締めつける。

「……私を愛してるって?」楓は呟いた。「愛してる人との記念日の夜に他の女を抱くの?」

昨夜は結婚三周年。大輔は「サプライズがあるから、家で待ってて」と言った。

楓は大輔の好きな白いドレスを着て、キャンドルを灯し、好物の料理を並べた。遅くなるって言われても、信じて待った。

――でも、日付が変わっても帰ってこなかった。

午前一時。唐突にスマホが震えて、SNSのフレンドリクエストが届いた。変なアイコン写真。メッセージは「あなたへのサプライズ」。

最初は迷惑メールだと思っていた。即ブロックしようとした瞬間――指を止めてしまった。

メッセージが立て続けに届いたのだ。

【まだ起きてる?旦那が帰ってこないから?もう気づいてるでしょ。今、大輔は私と一緒なの。雷が怖いって言ったら、心配して来てくれたの。本当にいい男よね。あなた一人にはもったいない】

連なる言葉の一つ一つが、針のように容赦なく心臓に突き刺さる。手が震えて、画面をうまく動かせない。

どうせただの悪ふざけだ。そうに決まってる。頭ではそう言い聞かせるのに、胸の奥が冷えていく。

最後のメッセージで、楓の理性は折れた。

【信じられないなら、住所送るよ。鍵の番号は、あなたたちの結婚記念日。わかるでしょ?】

楓は震える指でリクエストを承認した。相手はすぐに住所と暗証番号を送ってきた。

――0823。確かに、結婚記念日。

楓は家を飛び出した。車を運転しながら、胸が破れそうで、息が浅くなる。

到着したのは高級マンションだった。ドアの前に立つと、指先が冷たくなっていくのがわかった。

テンキーに、0823と入力する。すると、「カチ」と音がしてロックが外れ、ドアが開いた。

廊下には男物のスーツジャケットが投げ捨てられていた。それは今朝、大輔が着て出た――三周年のために新調したやつだ。

リビングのソファには黒いレースの下着。テーブルのワイングラスには、べったりと口紅の跡が残っている。

足元には、男女の服が散らばっていた。そして寝室の前には、赤いレースのナイトガウンが裂けたまま落ちている。

楓は足が震えて、まともに立てない。それでも、逃げたら一生後悔する気がして――半開きのドアを押した。

ベッドの上。大輔が、知らない女を抱いていた。

大輔は目を閉じ、楽しげな表情で呻いていた。「ああ……そうだ……すごく……良い……」

女は振り返り、勝ち誇ったように笑って言った。

「ねえ、大輔。私のほうがいい?それとも楓?」

大輔は、吐き捨てるみたいに言った。

「楓と比べるな……興が冷める」

それから彼は女性の体をひっくり返し、後ろから彼女の腰をつかみ、狂ったように突き立てた。女性の呻き声と大輔の荒い息遣いが入り混じった。

その瞬間、楓の中で何かが音を立てて崩れた。

八年前。大学で出会って、純粋に恋をして、結婚して。周りからは「理想の夫婦」だとか「お似合いの二人」だとか散々言われた。

――だが全部、嘘だった。

楓は口を押さえた。吐き気が込み上げる。足が勝手に後ずさって、気づいたら部屋を飛び出していた。

そのままセンター街のバーへ。隅の席で一人、ウイスキーを流し込んだ。

喉は熱い。頭もぼんやりする。なのに胸の痛みだけ、どこまでも鮮明だった。

明里が駆けつけた頃には、楓はもうぐでぐでに酔っていた。

「楓!」明里が向かいに座る。顔は心配でいっぱいだった。「どうしたの、それ……何があったの?大輔に何かされた?」

楓は赤く腫れた目で彼女を見た。

「明里……今、その名前聞きたくない」

グラスをあおって、胸の中から込み上げてくる苦味を飲み込む。

「見ちゃったの。あいつが……他の女と寝てるの。誤解とかじゃない」

明里は楓の手を握った。「楓……もしかしたら、話し合えば……」

「話すことなんてない」楓は、酔いに揺れながらも、声だけははっきりしていた。

「離婚する。あいつが他の女抱いてた光景を思い出すだけで、吐き気がする」

楓は家に戻ると、そのままリビングのソファに沈み込んだ。スマホの画面には、さっきかけた番号がまだ残っている。

怒りと悲しみが少し引いたぶん、現実がじわじわ押し寄せてきた。離婚するなら、まずは自立しなきゃいけない。

――でも、父の治療費。

今、毎月の医療費は全部大輔が出している。月に600万円。とてもひとりで背負える額じゃない。

楓は指先を震わせながら連絡先をスクロールした。そして、ある名前で手が止まる。

安藤教授。大学院時代の指導教官だった人。

迷う時間はなかった。楓は通話ボタンを押した。

「もしもし……安藤(あんどう)教授ですか?私です。木村楓(きむら かえで)です」

落ち着いた声を出したつもりなのに、語尾がわずかに震えた。

「楓?……本当に楓なのか?」受話口の向こうの声が、驚きで跳ねた。「結婚してから三年だろ。元気にしてたのか?」

楓は唇を強く噛んだ。鉄の味が広がる。

「教授……私、研究に戻りたいんです。急なのは分かってます。でも、仕事が必要で……」

「もちろんだ!」返事は即答だった。「君は、私が見てきた中でも指折りの学生だった。分子生物学の修士論文も、本当に見事だったよ。ちょうど今、シニア研究員を探している企業がある。待遇も悪くないどころか、かなりいい」

「……ありがとうございます」楓は小さく息をついた。胸の奥の固まりが、少しだけほどける。

「礼なんていらない。才能があるのに、結婚を理由に研究を離れたのは実にもったいないことだった。ところで、いつから働けるんだ?」

「できるだけ早く、お願いします」

通話を切ると、楓の胸にかすかな灯がともった。

――大丈夫。私は、やり直せる。

大輔と別れて、自分の人生を取り戻す。

楓は寝室に入って荷造りを始めた。服を畳み、スーツケースに詰める。頭を空っぽにしないと、手が止まりそうだった。

クローゼットの奥には、新婚旅行のパリで買ったおそろいのパジャマ。ドレッサーの上には、外国で一緒に選んだ小さな天使の置物。机には、夕暮れのビーチで笑い合ってキスしている写真。

どれも、幸せな時間の証明だった――なのに今は、一つ一つが胸をえぐる刃でしかない。

どうして気づかなかったんだろう。どうして、あの違和感を見ないふりしたんだろう。

引き出しを開けて私物を取り出そうとしたとき、指輪が光を反射して目に刺さった。まるで、嘲笑うみたいに。

その奥に、婚姻届受理証明書があった。

震える手で持ち上げる。

その証明書を見て、心が痛んだ。あの頃は、心から幸せだった。

三年前の八月二十三日。婚姻届を一番に出したくて、朝六時に起きて役所に並んだ。

あのときの大輔は、子どもみたいにはしゃいでいて、車の中でも落ち着きなく喋り続けていた。

「楓、俺たち本当に結婚するんだな」助手席で跳ねるように言って。「十八の頃に戻ったみたいだ。藤原(ふじわら)教授の化学の授業で、初めて君を見たときみたいにさ」

書類を受け取った瞬間、大輔の手ははっきり分かるほど震えていた。壊れ物でも扱うみたいに大事そうに抱え、目に涙まで浮かべて。

「楓……俺たち、これでやっと夫婦だな」声を詰まらせて囁いた。「一生、君を愛し、守る。君が俺の全部だ」

楓は疑いもしなかった。運命の人だと、本気で信じていた。

――永遠だと。

でも今は。

思い出すと、涙がこぼれそうになる。その直前、聞き慣れたエンジン音がした。

心臓が跳ねる。ガレージのシャッターが開く音、階段を上がる足音、そして、「楓、ただいまー!」

大輔の明るい声が、階下から響いた。

胸がぎゅっと締めつけられる。楓は慌てて婚姻届受理証明書を引き出しに押し込み、目元を乱暴にこすった。

ドアは開けっぱなしだ。スーツケースを見られるわけにはいかない。

足音が近づき、大輔が寝室のドアを開ける。楓の姿を見た瞬間、背後から抱きしめてきた。

かつては、いちばん安心できた腕。だが今では、吐き気がせり上がるだけ。

――匂いが違う。甘いバニラのボディソープ。どこかでシャワーを浴びてきた匂い。

「俺がいなくて、寂しかった?」耳元の声が、妙に満ち足りている。

楓は身体を硬くし、突き飛ばしたい衝動を必死に押し殺した。「……どこに行ってたの?」

「ごめん、仕事が忙しくてさ」大輔は平然と嘘をついた。「昨日は会社で寝ちゃって、記念日も完全に忘れてた」

そう言いながら、ジャケットのポケットから高級そうなジュエリーケースを出す。「でも、これで許してくれないか」

蓋を開けると、そこには見事なダイヤのネックレスがしまってあった。光が虹色に散って、部屋が一瞬だけ眩しくなる。

「綺麗だろ?」大輔は誇らしげに目を細めた。「つけてやる。こっち向いて」

楓は言われるまま振り向いた。糸のついた人形みたいに。

首元に触れる指。冷たい金属。重たいダイヤ。息が詰まる。

「完璧だ」一歩引いて満足そうに眺める。「明日はお祖父様の誕生日パーティーだろ。桜井家の人が全員集まる。これなら、君が一番目立つ」

「……行かなきゃだめ?」声が、自分でも驚くほど空っぽだった。

「当たり前だろ。君は俺の妻なんだから」

大輔が優しい顔で近づき、キスしようとする。楓は反射的に身を引いた。

「……先にシャワー浴びたら?」顔を背けて言う。

「そうだな」大輔は気にした様子もなく、着替えを持ってバスルームへ向かった。

そしてすぐにシャワーの音がした。湯気がドアの下から漏れてくる。

そのとき、楓のスマホが震えた。通知。

画面を見た瞬間、血の気が引く。

連絡のメッセージ。添付された写真には、今、楓の首にかかっているのと同じネックレスをつけた女。

白い肌には、キスマークと爪痕。写真は首元と胸元だけが切り取られている。

続く文章を読んだ瞬間、楓の世界が音を立てて崩れた。

【このネックレス、似合う?あなたのために選んだらしいけどね。昨日、抱かれたときにつけてたんだよ。大輔が『すごく綺麗だ』って言ってくれたの】

吐き気が一気に込み上げ、楓は息を詰めた。

首元に手を伸ばしてネックレスを外し、そのまま迷いなく寝室のゴミ箱に投げ捨てる。ダイヤが金属に当たった音がした。

楓はその足で客用バスルームに飛び込み、シャワーを全開にした。熱い湯が肌を刺す。でも、そんな痛みはどうでもいい。

ボディソープを掴み、首元から身体まで必死に洗い続ける。大輔の痕跡を、触れられた記憶を、全部流し去りたかった。

肌が赤くなってヒリつくのに、まだ汚れている気がした。あのネックレスが、別の女の首にかかっていた――それだけで胃がひっくり返りそうになる。

想像してしまう。昨夜、大輔のそばで笑っていた女。そして、さっきまで自分に向けられていた甘い声。

突然、バスルームのドアが開いた。

ガラス越しに立っていたのは大輔だった。濡れた髪、肩を伝う水滴。視線が楓の輪郭をなぞるように落ちていく。呼吸が荒い。目に、わかりやすい熱が宿っていた。

「楓……綺麗だ」

楓ははっとしてタオルを掴み、身体に巻き付けた。同じ目で、あの女も見ていたのかと思ったら、また吐き気が込み上げる。

「近づかないで」

後ずさる楓に、大輔は手を伸ばしてくる。

「どうしたんだよ、楓」

頬に触れようとする手を楓は避けた。それでも大輔は引かない。強引に距離を詰め、抱き寄せようとする。

「やめて……!」

大輔は諦めなかった。それどころか手を伸ばし、彼女を腕に抱き寄せた。彼の指は彼女の体の上をさまよい、タオル越しに背中をなで、それからゆっくりと下へ滑っていった。

「楓、君が欲しい」

彼は彼女の耳元に寄り添いささやき、熱い吐息が肌に吹きかかった。

楓の体は一瞬凍りついた。彼女は逃げようともがいたが、大輔は彼女よりはるかに強かった。彼の手は胸元に移り、親指が敏感な肌をそっと撫で回し、もう片方の手は太ももの内側へと滑り込んでいった。

「楓……」耳元に熱い息がかかる。「……子どもを作ろう」

切実そうな声が、逆に怖かった。「君にそっくりな女の子。きっと可愛いよ」

血の気が引く。さっきの写真が脳裏に焼き付いて離れない。

――その手は、数時間前まで別の女に触れていた。

嫌悪と怒りが胸の底で爆発した。

「近づかないで!」

楓は全力で突き飛ばした。大輔がよろめく。

「大輔、疲れてるの!今は無理!」

大輔は驚いた顔で楓を見つめた。困惑と戸惑いが浮かぶ。

「……ごめん」すぐに罪悪感を滲ませた声になる。「無理させるつもりじゃなかった。ただ……君が欲しくて……愛してるんだ」

間を置いて、様子をうかがうように続ける。「今、子どもが嫌なら待つよ」

その表情を見て、楓の心はぐちゃぐちゃに揺れた。三年間、確かに優しかった。大事にもしてくれた。

それでも。昨夜、別の女のところにいた男と、今ここで「愛してる」と言う男が、どうしても同じ人に見えない。

写真。メッセージ。ゴミ箱に捨てたネックレス。

その夜、楓は天井を見つめたまま眠れなかった。隣で大輔は規則正しく寝息を立てている。痛ましい映像が、何度も何度も頭の中で再生された。

眠れたのは、夜が明けてからだった。

翌朝。鏡の中の自分は、目の下に濃い隈を作っていて、ひどく疲れた顔をしていた。

「大丈夫か?」大輔が心配そうに言う。「今日は休んだら?」

楓は首を振った。「平気。お祖父様の誕生日パーティーがあるでしょ」

桜井家の敷地に車で入った瞬間、黒いロールスロイスが猛スピードで追い抜いていった。そして、正面玄関の前で止まった。

大輔はハンドルを強く握りしめ、表情を一瞬で曇らせた。

「……叔父さんか」

桜井雅也(さくらい まさや)。大輔の叔父で、祖父・理一(りいち)の末息子。年は六つしか離れていないのに、大輔は昔から彼が苦手だった。

家業には入らず、自分で起業。その会社は今や桜井グループの五倍の価値を持つと言われている。

頭が切れて、容赦がなく、しっかり根に持つタイプだ。去年の会食で大輔が言いふらしていた悪口を偶然聞いて、数百億円規模の提携話を一蹴した――そんな話まである。

ロールスロイスの後ろに車を止め、楓が降りた瞬間。ヒールが砂利に引っかかった。

ぐらり、と身体が傾く。

次の瞬間、強い腕が腰を支え、硬い胸に引き寄せられた。

見上げると、深く暗い瞳をした、背が高く、近づくだけで空気が変わるような男がいた――三十歳手前だろうか。

彫刻みたいに整った顔。高い頬骨、通った鼻筋、引き締まった顎。ダークグレーのスーツが、広い肩と細い腰を際立たせている。

雅也だった。

「気をつけて」

低く、吸い込まれそうな声。そこには、確かな気遣いがあった。

一瞬、楓は目を逸らせなかった。

すぐ横に大輔が現れ、嫉妬で顔を赤くしながら楓の手を乱暴に引いた。

「ありがとうございます、叔父さん」

大輔の声は硬く、怒りを必死に抑えているのが分かる。

数歩進んだところで、楓の耳元に顔を寄せた。

「他の男に近づくな」刺すように低い囁き。「たとえ叔父さんでもだ」

あまりの皮肉に、楓は笑いそうになった。昨夜、別の女を抱いた男が「独占欲」を語るなんて。

「じゃあ、私が転んで恥かいてもよかったってこと?」冷たく言い返す。

大輔はすぐ引いた。「そういう意味じゃない。ただ……誤解されたくないだけだ」

楓は返事をせず、そのまま玄関へ向かった。

桜井家の邸宅は豪奢で、シャンデリアがきらめく立派な造り。けれど楓の心は、少しも弾まない。

リビングに入るなり、祖母の麗子(れいこ)が満面の笑みで声をかけてきた。

「楓、大輔!来たのね。さあ、こっちへ」

楓は深呼吸して作り笑いを貼りつける。大輔への気持ちはともかく、祖父母への敬意は別だ。

「こんにちは、お祖父様。お祖母様」

麗子は目を輝かせた。彼女はずっと、雅也を結婚させたがっている。

「ここに座りなさい」

腰を下ろしたタイミングで、雅也がリビングに入ってきた。麗子の表情が、露骨に険しくなる。

「ほらっ、大輔を見なさいよ」わざとらしく言う。「仕事もうまくいって、奥さんもこんなに綺麗。ひ孫だってすぐかもしれないのよ」

そして雅也を睨む。「あなたはもうすぐ三十なのに、まだ独り身。次、恋人を連れてこなかったら、もう来なくていいわ」

雅也はちらりと大輔を見てから、楓に視線を移した。唇の端が、ほんの少しだけ上がる。

「ええ」静かに言う。「……本当に、綺麗ですね」

雅也のどこ吹く風という態度に、麗子はこめかみを押さえた。頭痛が増したようだ。小さく首を振り、それから視線を大輔と楓へ向ける。

「結婚して、もう三年になるのよ」

穏やかな口調を装ってはいる。けれど言葉の刃は隠せていない。

「子どもはいつ?ひ孫の顔を見るのを楽しみにしているのだけれど」

その話題が出た瞬間、リビングの空気がぴんと張りつめた。楓は無意識にティーカップを強く握り、指の関節が白くなる。

――いちばん触れられたくない話。

口にされるたび、胸の奥をえぐられる。

そこへ、大輔の叔母・雪乃(ゆきの)が身を乗り出した。

「楓。大輔と結婚して三年よ?」

薄く笑いながらも、声の端には嘲りが滲む。

「子どももできないなんて、外からどう見られると思ってるの?桜井家の評判にも関わるわ」

一拍置いて、目に露骨な悪意を宿す。

「そもそもね、大輔が強く望まなかったら――あなたの身分で、この家に嫁げたと思う?感謝する立場でしょう。子どもを産まない妻なんて、代わりはいくらでもいるのよ」

心配しているふりの口調とは裏腹に、その視線はあからさまな軽蔑で満ちていた。雪乃は昔から、楓を見下している。

子どもの話題は、楓の胸をぎゅっと締めつける。もちろん、欲しくなかったわけじゃない。

将来を約束されていた研究の道を手放して、良き妻になろうと努力してきた。それでも――授からなかった。

人知れず病院にも通った。医師は「体に異常はありません」と言った。代わりに、ストレスの可能性はあります、と。

それでも桜井家は彼女を、陰で「役立たず」「子どもも産めない女」と嘲った。

屈辱に沈みかけたそのとき。大輔が楓の手を取った。

祖母へ向かって、穏やかに笑う。

「おばあちゃん、ちゃんと考えてるよ。こういうのは焦るものじゃない。時間に任せるのが一番だろ」

続いて雪乃へ向き直り、声に力を込めた。

「雪乃おばさん。その言い方はやめてくれ。楓は俺の妻だ。そんなふうに言われる筋合いはない」

人前でたしなめられ、雪乃の顔がかっと赤くなる。

「あなたのためを思って言ってるのよ。こんなにも長い間、何の進展もないなんて……」

「もういい」

大輔はきっぱり遮った。

「俺たちのことに口出ししないでほしい。はっきり言うけど、楓を妻に迎えられたことを誇りに思ってる。楓が嫁いできたなんて、考えたこともない」

その言葉を聞きながら、楓の心は複雑に揺れていた。三年間の愛情が本物だったのは、きっと事実だ。彼がいつも家族の前に立って、自分を守ってくれたのも。

――けれど同時に。裏切りも、紛れもない現実だった。

写真。捨てられたネックレス。あの女の挑発的なメッセージ。

すべてが、大輔の嘘を突きつけてくる。

雪乃はまだ引き下がらない。今度は妙に甘ったるい声で続けた。

「事実を言ってるだけよ。三年も妊娠しないなら、体に問題があるんじゃない?今は医療技術も進んでるし、ちゃんと治療したら?」

「雪乃」

大輔の声が、氷みたいに冷たくなる。

「これが最後の警告だ。子どものことは、楓と俺の問題だ。干渉するな」

以前なら、楓はその言葉に救われただろう。愛されている証だと信じられたはずだ。

でも今は、空虚にしか響かなかった。一度裏切った事実は、どんな言葉でも消えない。

宴の途中で、大輔のスマホが鳴った。

「ごめん」

申し訳なさそうに立ち上がる。

「仕事で、緊急対応が必要みたいで」

楓に向き直り、声を少し和らげた。

「祖母の運転手に送ってもらって先に帰ってて。俺もすぐ帰るから」

麗子が手を振る。

「行きなさい、大輔。楓のことは心配しなくていいわ」

大輔は楓の額に軽くキスを落とした。

「埋め合わせは必ずする。約束だ」

車が敷地の奥へ消えた途端、麗子の表情から愛想が消えた。楓を冷ややかに見る。

「さて、大輔もいないことだし」

淡々と言う。

「あなたも帰りたいでしょう?」

室内の空気が、さらに冷たくなる。

「楓は、か弱いお嬢様じゃないものね」

雪乃が自信を取り戻したみたいに言った。

「一人で帰れるでしょう?」

頬が熱くなる。まるで使用人みたいな扱いだった。大輔の庇護がなければ、ここでは無価値――そう言われているのと同じだ。

「では、失礼します」

楓は立ち上がった。

「今日はありがとうございました」

執事は麗子の小さな合図に従い、門の外まで楓を案内しただけで踵を返した。屋敷の前に、楓だけが取り残される。

その瞬間、雨が降り出した。

重い雨粒が、あっという間にシルクのドレスを濡らす。タクシーを呼ぼうとスマホを開いたが、この辺りは配車不可。屋敷は市街地から遠すぎるのだ。

雨脚は強まる一方で、数分後には全身びしょ濡れ。セットした髪は顔に張りつき、ドレスは肌にまとわりつく。

――これ以上、悪くなることなんてある?

そう思った瞬間。闇を切り裂くようにヘッドライトが近づいてきた。

黒いロールスロイスが、ゆっくりと楓の横に停まる。

ウィンドウが下がり、鋭い輪郭が覗いた。

雅也だった。

雅也は屋敷を出る準備をしながら、ふと車窓の外へ目をやった。雨の向こう、門のそばの石壁に身を寄せている楓が見える。

ドレスはすっかり濡れて体に張りつき、無防備に体のラインを浮かび上がらせていた。長い髪は水を含んで頬に垂れ、ひどく心細そうに見える。

――なるほど。

雅也はすぐ状況を察した。麗子や雪乃の性格はよく知っている。気に入っていない義理の姪に、わざわざ送迎など手配するはずがない。

助手席の秘書の恭平(きょうへい)へ目を向ける。

「降りろ。傘を差してやれ」

恭平は即座に足元の黒い傘を掴み、雨の中へ出ていった。雅也は窓を下ろす。

「乗れ」

低い、命令口調。

「家まで送る」

楓は顔を上げ、相手が雅也だと気づくと驚いたように一歩下がった。そして小さく首を振る。

「叔父さん……大丈夫です。もうすぐ雨も止みますし、ここで待ちますから……」

大輔から、雅也には近づくなと何度も言われていた。危険な人だ、と。今夜これ以上、面倒は起こしたくない。

楓があからさまに距離を取ろうとするのを見て、雅也の眉がわずかに寄る。声はさらに低く、圧を帯びた。

「乗れ。二度は言わない」

抗えない威圧感。その視線に射抜かれ、楓の決意がぐらつく。

断る間もなく、恭平が傘を差して楓の横に立った。震える手から、濡れたクラッチバッグをそっと受け取る。

「楓様、どうかお乗りください」

穏やかな口調だった。

「この雨は少なくともあと一時間は続きます。風も強いですし、その格好では体を壊します」

空を見上げると、まだ重い雨雲が広がっていた。視線を落とすと、ドレスはびしょ濡れで、髪からも水が滴っている。体が小刻みに震え始めているのが、自分でも分かった。

唇を噛みしめ、楓はついにドアを開けて車内へ滑り込む。

ロールスロイスの中は、驚くほど暖かかった。上質なレザーの感触。ほのかに漂う高級な香水の香り。一気に体が緩む。

雅也の視線が、張りついた楓のドレスへ落ちた。布地は半ば透け、下着の輪郭さえ分かる。無意識に喉が鳴る。

何も言わず、ジャケットを脱いで楓へ放った。

「ありがとうございます……」

楓は慌てて肩に掛けた。体温が残り、香りも彼のものだった。意外なほど落ち着く。

「クリーニングしてお返しします」

「捨てろ」

雅也は淡々と言った。高価なジャケットなど、どうでもいいと言わんばかりに。

車は静かに走り出し、雨の夜を進む。沈黙が落ちる。

楓は後部座席の隅で身を縮め、隣の男を正面から見られなかった。圧倒的な存在感が、車内の空気ごと支配している。

横顔を盗み見る。鋭い顎のライン、乱れひとつない髪。すべてが富と権力を物語っていた。

大輔とは違う。優しさよりも、危うさを感じさせる男だ。

二十分後、車は楓の家の前で止まった。楓は慌ててドアに手をかける。

「送っていただいて、ありがとうございました」

早口で言い、ジャケットを座席に置いた。

「本当に助かりました」

楓が家の中へ消えるのを、雅也は黙って見送った。彼女が座っていた場所には、かすかにジャスミンの香りが残っている。

思わず深く息を吸い込む。体が勝手に反応した。

目を閉じ、自分に言い聞かせる。

――甥の妻だ。理性を保て。

一方、楓は家に入った途端、激しいめまいに襲われた。濡れた服のままなのに、体は熱い。頭が重く、意識がぼやける。

着替える間もなく視界が暗転し、そのままリビングで崩れ落ちた。

目を覚ましたとき、楓は病院のベッドに横たわっていた。消毒薬の匂いが鼻をつく。

けれどサイドテーブルには、見慣れたものが並んでいた。

苺のショートケーキ。色とりどりのマカロン。手作りのチョコレート。そして、ピンクのバラの大きな花束。

「よかった……目を覚まされましたね!」

看護師が安堵した顔で近づいてくる。

「高熱が丸一日以上続いていました。桜井様がずっと付き添っていらして……急用で一時間ほど前に出られましたが、とても心配されていましたよ」

体温を測りながら続けた。

「お呼びしましょうか?意識が戻ったと知ったら、きっと喜ばれます」

並べられた贈り物を見つめ、楓の胸がふっと緩む。昔から体が弱く、注射や薬も苦手だった。

そんなとき、大輔は決まってこうしてくれた。甘いものや花を買い集め、少しでも元気づけようとしてくれる。それはいつの間にか、二人の習慣になっていた。

その優しい記憶が、逆に胸を締めつける。浮気をした男と、徹夜で看病する男が、同じ人間だなんて。

「……今、どこにいますか?」

楓は上体を起こした。

「自分で探します」

看護師は微笑む。

「病院内で用事を済ませているはずですよ」

楓は部屋を出て、白く静かな廊下を歩いた。角を曲がった――その瞬間。

足が止まる。

そこにいたのは、大輔だった。産婦人科の診察室から出てくるところだ。

そして隣には、一人の女。彼女はお腹をかばうように手を添えていた。

大輔は若い女の体をそっと支えながら、産婦人科の診察室から出てきた。二人とも満面の笑みで、幸せがそのまま顔に浮かんでいる。

楓は一瞬で気づいた。――あの写真の女だ。

そのとき、先に楓の存在に気づいたのは女のほうだった。廊下に立ち尽くす楓を見るなり、驚き……そして、楽しげな悪意を瞳に灯らせた。

「まあ!桜井夫人じゃないですか?」

わざとらしく声を張り上げる。

「病院で会うなんて、すごい偶然ですね」

その声に、大輔が顔を上げた。視線が楓とぶつかった瞬間、彼の全身が固まる。

慌てて女の腕から手を離し、動揺が隠せない。

「楓!」

大輔は駆け寄ってきた。声が上ずっている。

「どうしてここに?部屋で休んでなきゃいけないだろ」

そして、矢継ぎ早に言い訳を重ねる。

「薬を取りに下に行ったら、たまたま智美に会ったんだ。新しい秘書で、妊娠してて……転びそうだったから、ちょっと支えただけだ」

空調の効いた廊下なのに、額にはうっすら汗がにじんでいた。

楓の視線は、智美のわずかにふくらんだ腹へ向かう。息が浅くなる。胸がきつい。それでも、表情だけは崩さなかった。

「智美さん」

楓は静かに言った。

「いつ妊娠されたんですか?お父さんは?こんな大事な検診、普通は一緒に来ませんか」

智美は誇らしげにお腹を撫で、甘い笑みを浮かべた。

「まだ二か月なんです」

嬉しそうに頷く。

「この子の父親は忙しくて来られなかったんですけど、伝えたらすごく喜んでくれて」

顔がぱっと明るくなる。

「私と赤ちゃんに、最高の生活をさせたいって。もう都心に素敵なマンションも買ってくれましたし、出産したらちゃんと籍を入れるって約束してくれてます」

一言一言が、楓の胸をじわじわと抉った。

智美はさらに、わざとらしく続ける。

「桜井夫人って、本当に幸せですよね。こんなに素敵なご主人がいらして」

小首を傾げ、無邪気を装ったまま。

「でも私の彼も負けてません。妊娠してから前より綺麗になったって、毎日言ってくれるんです。私のそばを離れるのがつらいみたいで」

そして、にこっと笑って言った。

「今日、私時間あるんです。よかったら夕食ご一緒しません?この子の父親も呼びますけど」

その視線は、露骨に挑発を含んでいた。

大輔の表情が一気に曇る。智美を鋭く睨みつけた。

「妻は忙しい」

突き放すような声だった。

「智美、彼氏が待ってるんだろ。心配させるな」

苛立ちと拒絶がはっきり滲む。

そう言うと、大輔は楓の肩を抱き寄せた。触れ方だけは優しい。心配する夫そのものだ。

「まだ回復途中だ。病院を歩き回るな」

穏やかな声で続ける。

「ただの秘書だ。気にする必要はない」

その冷たさに、智美の顔が歪んだ。目に涙が浮かび、急に幼く、か弱く見える。

「そうですね……」

声を震わせる。

「私なんかが桜井夫人と食事なんて、おこがましいですよね」

手の甲で目元を拭い、本当に傷ついたみたいに言った。

「もう行きますね。彼が心配するので」

背を向け、肩を小さく震わせながら去っていく。

一瞬、大輔の表情が揺れた。追いかけたそうな気配すらある。

――でも、楓が見ていることに気づいて、その場に留まった。

大輔は楓の頭を撫で、いつもの声で言う。

「安静にしてて。会社で急ぎの用事がある。悠真(ゆうま)に送らせるから、今日は休んで。夜にまた様子を見に来る」

三年間、何度も聞いてきた声。

病室に戻った直後、楓のスマホが震えた。送り主は――智美だ。

最初に表示されたのは妊娠検査薬の写真。くっきり二本のピンクの線。

続くメッセージを追ううち、楓の指先が震え始める。

【今日で分かったでしょ。お腹の子は大輔の。あなたが思ってるほど、彼はあなたを愛してない。本当に愛してたら、私が彼の人生にいるはずないでしょ?】

【知ってる?あなたの誕生日も結婚記念日も、あなたが寝たあと、彼は毎年私のところに来るよ。すごく激しくて、情熱的で……翌日は歩けないくらい】

【車でも、会社でも、あなたが留守の間は寝室でも。あなたにはしてないこと、全部私にはしてくれる。ねえ楓、彼はあなたと本気でしたこと、ある?それとも情熱は全部、私だけのもの?】

残酷な文字列を目で追うたび、楓の中で何かが音を立てて崩れていった。スマホを置く手が震える。

ゆっくり息を吸って、吐く。込み上げる感情を必死で押さえ込む。

その夜。大輔が白く上品な箱を抱えて戻ってきた。

中には、市内でも屈指の高級フレンチパティスリーの苺ムースケーキ。かつて楓が、いちばん好きだったデザート。

「楓、好きだろ?」

反応を探るように言う。

「まだ体力が戻ってないって先生が言ってた。甘いもの食べて、元気出さなきゃ」

箱を開けると、淡いピンクの繊細なケーキが現れた。

以前なら、楓は目を輝かせて喜んだはずだ。「綺麗すぎて食べられない」なんて言って。

でも今は、見ただけで胃がむかついた。

銀のフォークを手に取り、無表情でひと口運ぶ。甘味が重く、口の中にまとわりつく。飲み込めない。

楓は黙って立ち上がり、ケーキごとゴミ箱に放り投げた。鈍い音と共に、綺麗なケーキが、崩れて落ちた。

大輔は呆然と楓を見つめた。

「楓……どうしたんだ?」

楓は大輔のほうを向いた。その瞳から、いつもの温もりは完全に消えていた。

「……もう、前と同じ味がしないの」

声は不思議なくらい静かだった。けれど、その静けさが大輔の背筋を冷やす。

大輔は慌てて駆け寄り、楓を抱きしめる。

「きっと店がレシピを変えたんだ」

必死に取り繕う。

「明日、電話して確認するよ。いくらかかっても、前とまったく同じ味に戻させる」

楓の体は、腕の中で硬くこわばったまま。淡々と言う。

「一度変わったら、もう元には戻れない」

その言葉は氷の刃みたいに、大輔の胸に突き刺さった。彼女がケーキの話以上のことを言いたがっているのは、嫌でも理解せざるを得ない。

胸の奥に焦りが一気に広がる。

そのとき、スマホの着信音が鳴った。張り詰めた空気を切り裂く音。

画面を見た瞬間、大輔の顔色が変わる。楓はその変化を見逃さなかった。失望が、さらに深く沈んでいく。

「……出ないと」

大輔はしどろもどろに言った。

「仕事で、緊急の用事が」

楓は完全に背を向けた。

「行って。仕事は大事でしょ」

大輔は数秒、その場に立ち尽くした。妻を取るか、電話を取るか。

そして彼は、ドアへ向かった。

廊下に出た瞬間、薄い壁越しに声が聞こえる。

「智美?どうした?具合悪いのか?今すぐ行く……」

声は遠ざかり、楓はリビングに一人残された。

静けさが息苦しいほど重い。白い壁が、じわじわ迫ってくるように感じる。

二十分後、楓のスマホが震えた。知らない番号。でも楓は出た。

「楓、邪魔してないといいけど」

智美の甘ったるい声だ。

「今日は体調が悪くて。だから今夜、大輔を借りちゃった。電話したら、迷わず飛んできてくれたの。私が大丈夫かどうかが、何より大事だって」

楓はスマホを握る手に力を込めた。けれど何も言い返さない。

智美は満足げに続ける。

「今日ね、大輔言ってたわ。私のほうが若くて綺麗だって」

声が、さらに残酷になる。

「それに私なら、あなたには叶わなかったこと——子供を産むこともできるのよ」

間を置いて、嘲るように言った。

「三年も妊娠しないなんて、体に問題があるんじゃないかって心配してたわよ」

そして、最後の一撃でも与えるかのように笑う。

「そうそう。今日あなたが捨てた苺ムースのケーキ。あれ、私にはしょっちゅう買ってくれるの。甘い女の子には甘いものが一番って。どう?美味しかった?」

通話は、智美の高い笑い声で切れた。

楓は暗い部屋で、ただ座っていた。胸の奥で、何かが決定的に変わってしまったのが分かる。

息が詰まるほど痛くて、そのあと、ゆっくり感覚が麻痺していった。

その日から楓は、静かに荷造りを始めた。服を丁寧に畳み、スーツケースに入れていく。

本、化粧品、アクセサリー。どれも、もう抱えていたくない記憶をまとっている。

その頃、大輔は家を空けることが多くなった。帰りは遅く、泊まらない日も増えた。帰ってきても心ここにあらず。

一方で、智美からのメッセージは止まらない。大きくなっていくお腹の写真。高価な贈り物。心を抉るような挑発の言葉。

親友の明里が、離婚の書類作成を手伝いに来てくれた。

「大輔が不倫して、しかも相手を妊娠させてるなら」

明里は真剣な顔で言う。

「かなり有利に補償を請求できるよ。それに、あなたは結婚のためにキャリアを捨てた。そこも大きい」

書類をテーブルに広げる。

「大学の研究職、続けてたら今頃は高収入だったはずだし」

でも正式に進める前に、楓は父に話すべきだと思った。手術し、療養中の父がいる病院へ向かう。

父の顔色は、数週間前よりずっと良かった。ベッドに起き上がり、新聞を読んでいる。

「……お父さん」

楓は慎重に切り出した。

「もし……仮にだけど……離婚したいって言ったら、どう思う?」

父は新聞を置き、じっと娘を見る。

「楓、何かあったのか?」

楓は視線を逸らさず、言い繕った。

「ただの仮の話。もし、そんな日が来たら……」

「ありえない!」

父の声が鋭く上がる。

「桜井家が、どれだけうちを助けてくれたと思ってる?工場の事故のとき、倒産を免れたのは向こうのおかげだ。医療費も三年間、全部出してくれてる」

興奮で顔を赤くする。

「大輔はお前によくしてくれてるじゃないか。どうしてそんな考えが浮かぶんだ?誰かに変なことを吹き込まれたのか?」

――これ以上は無理だ。楓は悟った。

父は何も知らない。裏切りを知れば、病状に悪影響が出る。

話題を変えようとした、そのとき。父のスマホが鳴った。

画面を見た瞬間、父の顔から血の気が引く。

送り主は、智美。

表示されたのは、ホテルの一室らしき場所で情熱的にキスを交わす大輔と智美の写真。

その下に、短い一文。

【知っておいたほうがいいと思いまして。私は、あなたの娘婿・大輔の子を妊娠しています】

突然、父の木村恒一(きむら こういち)の身体が大きく痙攣し、激しい咳が止まらなくなった。息を吸い込めず、胸元を掴む指が小刻みに震えだした。

顔色はみるみる青から紫へと変わり、手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかって乾いた音を立て、そのまま転がっていく。

楓は落ちたスマホの画面に映った内容を見て、すぐに察した――これが引き金になったんだ。

怒りが一気に噴き上がる。けれど今は、智美を責めている場合じゃない。父の命が最優先だ。

楓はナースコールを必死に押し、廊下へ向かって叫んだ。

「誰か!先生呼んでください!今すぐ!」

医療スタッフが一斉に駆け込んできて、父の状態確認が始まる。楓は部屋の隅で立ち尽くすしかなかった。目の前でどんどん悪くなっていく様子が、ただ怖い。

診察を終えた主治医が重い顔で出てくる。マスクを外し、ゆっくり首を振った。

「木村さんの容体が急変しました」疲れのにじむ声だった。「腎不全が一気に進行しています。至急、ICUへ移して集中管理が必要です」

楓の足から力が抜けた。

「……どれくらい、深刻なんですか?」

「正直に言いますと、かなり危険です」医師ははっきり言い切る。「ただ、問題があります。ICUが満床なんです。市内の病院も同じ状況で、空き待ちになります」

「……待つ?」楓は耳を疑った。「先生、父は待てません。見てください、こんな状態なのに!」

父はまだ呼吸が安定せず、肌は灰色がかっている。恐怖で喉が詰まり、声がうまく出ない。

「お気持ちは分かります」医師は苦しそうに言った。「今は薬で状態を保ちながら、空きが出るのを待つしか……」

胸が押し潰されそうだった。楓の頭に真っ先に浮かんだのは、大輔――桜井グループの後継者。医療界にも太いパイプがあるはずだ。彼なら、父をICUに入れられる。

震える手で、大輔の番号を押した。

呼び出し音が数回鳴り、電話がつながる――けれど聞こえてきたのは、大輔じゃなかった。

「もしもし?」

甘ったるい声。智美だった。

楓の血の気が引く。

「私、楓。今すぐ大輔に代わって。緊急なの」

「あら、桜井夫人」心配してるふりが、声にべったり貼りついている。「大輔、今シャワー中なの。今日はずっと私の看病で疲れ切ってて……かわいそうに。休ませてあげないと」

怒りを飲み込み、楓は要点だけをぶつけた。

「父が危篤なの。ICUのベッドが必要だから、今すぐ代わって」

「あら……それは大変ね」同情の演技。「でも私も今日、体調が悪くて。妊娠中の吐き気とめまいって、よくあるでしょう?大輔、すごく心配してくれて、市内で一番の医療チームを呼んでくれたの。今も待機中だって。私とこの子のために」

楓の手が激しく震え、スマホを落としそうになる。父が命の淵にいる間、夫は妊娠した愛人と家族ごっこ。

「お願いだから――」楓が言いかけた瞬間、智美がかぶせた。

「あ、シャワー終わったみたい」智美は楽しそうに笑う。「今日は本当に大変だったから、もう休ませてあげないと。分かるよね?」

そして、通話は一方的に切れた。

楓は病院の廊下で、その場に立ち尽くした。世界が崩れるような感覚。

目を閉じ、必死に別の道を探す。そのとき、雨の中でコートを差し出された記憶がよみがえった。冷静で、迷いのない声。

――雅也。

迷っている暇はない。楓はすぐに電話をかけた。

「雅也さん……楓です」つながった瞬間、呼吸を整えながら言う。「突然すみません。父が危篤で、ICUが必要なんです。でも病院に空きがなくて……こんなお願い、図々しいのは承知の上です。でも――」

「病院の住所、送れ」

雅也の声は短く鋭い。

「俺が動く。十分でいい」

それだけ言って、通話は切れた。

――なのに。大輔のどんな言葉より、ずっと心が落ち着いた。

本当に、きっかり十分後。病院の院長自らが病室に現れた。

その後ろには、楓が論文で名前を見たことのある専門医たち。無駄がない。動きも言葉も、全部が速い。

「木村さんは、当院の特別ICUに即時移します」院長は丁重に説明した。「市内トップクラスの腎臓専門医を招集しました。最高レベルの治療を行います」

一時間後、父は個室のICUへ。二十四時間体制で管理されることになった。

その夜。容体が落ち着いたのを確認してから、楓は大輔と暮らしていた家へ戻った。

三年間の思い出で埋まったリビング。なのに今は、全部が嘘みたいに見える。

楓はスマホを開き、智美から送られてきたメッセージと写真を、片っ端から大輔のメールアドレスへ転送した。

高級ジュエリーを自慢する動画。大輔が買い与えたマンションでの親密な写真。お腹を撫でながら囁く音声――【パパは私たちが一番大事。全部くれるの】

すべて送り終えたあと、楓は最後の一文を打ち込む。

【大輔、これはあなたの恋人から届いたもの。そんなに愛し合ってるなら、私は身を引くわ】

続けて、明里が用意した離婚協議書の写真を添付。

【離婚協議書は準備済み。明日、あなたの弁護士から明里に連絡させて】

送信。

楓は立ち上がり、二人の過去を捨てることにした。

壁から結婚写真を外し、そのままゴミ箱へ。大輔にもらった宝石、服、化粧品――全部ゴミ袋に放り込む。

引っ越し業者を呼び、夜通し作業した。夜明けには、家は楓が来る前の姿に戻っていた。空っぽで、冷たい。

最後に一度だけ、かつて家だった場所を見渡す。

スーツケースを引き、楓は振り返らずに家を出た。