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秘書と愛し合う元婚約者、私の結婚式で土下座!?

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「汐見結衣(しおみ ゆい)様、先日ご予約いただきました結婚式場の件ですが、キャンセルということでよろしいでしょうか?」

結衣はスマホを握る指先にぐっと力を込めたが、声に感情はなかった。

「ええ、お願いします」

「かしこまりました。それでは、キャンセル手続きを進めさせていただきます」

「ありがとうございます」

電話を切ると、結衣は薬指から結婚指輪を抜き取り、テーブルに置いた。それから立ち上がって、スーツケースを引いて家を出て行った。

……

半月前。

夕方、結衣は一件の裁判を終えて、裁判所を出るとすぐにスマホを確認した。

LINEを開くと、ピン留めされたトーク画面には、結衣が送った数十件のメッセージが並んでいたが、相手からの返信は一件もなかった。

先月、二人は結婚式の招待状のデザインで口論になった。

その翌日から、婚約者の長谷川涼介(はせがわ りょうすけ)は海外出張に出てしまった。

この一ヶ月間、結衣がどんなにメッセージを送って仲直りを求めても、涼介はすべて既読無視だった。

この関係において、結衣は惨めなほど自分を低くして尽くしたが、それでも涼介の心を取り戻すことはできなかった。

親友の相田詩織(あいだ しおり)は見ていられず、皮肉交じりにこう言ったものだった。

毎年あれほど多くの離婚訴訟を担当して、数々のくず男を見てきたでしょう?なのにどうしてまだ長谷川涼介にこだわって、彼の本性を見ようとしないの、と。

実は、結衣は涼介の本性が見えていないわけではなかった。ただ、どうしても手放せなかったのだ。

かつてあれほど愛し合っていた二人が、最後には心が離れて、互いに嫌悪しあう結末を迎えることが耐えられなかった。

そして結衣は……涼介のことを、どうしても諦めきれなかった。

八年も一緒にいたのだから、結衣にとって涼介がいない自分など想像もできなかった。

そして彼のいないこれからの生活を、いったいどう送ればいいのか、皆目見当もつかなかった。

メッセージを打ちかけていた、まさにその時。突然、スマホの通知が画面に表示された。

涼介のSNSが更新された知らせだった。

投稿されていたのはシンプルな海の写真。だが結衣は、それが自分が涼介と一緒に行きたいと何度も話していたモルディブだとすぐに分かった。

結衣の指が止まってから、彼とのトーク画面に戻ろうとした瞬間。親友の詩織からメッセージが届いた。

タップすると、篠原玲奈(しのはら れな)のSNS投稿のスクリーンショットだった。

涼介と全く同じ海の写真。ただ、そこには一文が添えられていた。

――出張で疲れたって軽くこぼしたら、彼がモルディブ旅行に連れてきてくれた!

モルディブが結衣にとってどれほど特別な場所か、涼介が知らないはずはなかった。

結衣があれほど「一緒に行きたい」と言い続けていた場所。涼介はいつも「忙しい」とはぐらかしていたのに、まさか別の女を連れて行ったなんて……

まばたきをした瞬間、抑えきれずに涙がこぼれた。

さっき外で感じた冷たい風が、まるで心の中にも吹き込んできたかのようになった。

その時、詩織から電話がかかってきた。

「あの篠原玲奈って女、マジでむかつくんだけど!

結衣が長谷川ともうすぐ結婚するって知ってて、わざと彼と同じ写真をアップするなんて、最低な嫌がらせよ!

それに長谷川のやつも大概ひどいわよ!どこへ行こうが勝手だけど、なんでわざわざモルディブを選ぶの?

結衣がずっと一緒に行きたがってた場所だって知らないはずないでしょ?八年も付き合ったのに!

あいつら、ここまであからさまにしやがって!結衣が浮気されてもう三年になるのよ?それでもあいつと結婚して、この先一生そんな目に遭い続けるつもり?」

結衣の胸は締め付けられるように痛んだ。詩織の言うことは、それこそ痛いほど分かっていた。

でも、八年も付き合って、結婚式まであと一ヶ月余り。今さら諦められなかった。

結衣は、最後にもう一度だけ彼に賭けてみたいと思った。それでも望む結果にならなければ、その時はきっぱり諦めようと、そう心に決めた。

「詩織、土曜日はウェディングドレスとブライズメイドドレスの試着日だから、忘れないで来てね」

電話の向こうの声がぴたりと止まった。次の瞬間、詩織は何やら汚い言葉を吐き捨てて、一方的に電話を切った。

結衣の言葉に、詩織は呆れて怒りを抑えきれなかった。

ここ数年、涼介の心変わりは誰の目にも明らかだった。なのに結衣は、いわゆる痛い目を見るまで分からないタイプで、いつか涼介が必ずもう一度振り向いてくれると信じ込んでいる。

詩織が結衣には言わなかったことがある。それは、自分が何度も、涼介が別の女性と抱き合ってホテルに入っていくところを目撃していたことだ。

涼介はとっくに腐りきっていた。かつて結衣だけを見つめていた男ではなく、どこからどう見てもクズ男になり下がっていた。

あんなクズ男、事故にでも遭ってしまえばいい。一生、不幸のどん底にいればいいんだわ!

その夜、結衣はよく眠れなかった。何度も悪夢にうなされ、明け方近くになってようやく眠りかけた。

うとうとし始めた、ほんの束の間。玄関ドアの電子ロックが解除される音が聞こえた。

結衣ははっと目を開けた。体を起こすとほぼ同時に、涼介が寝室のドアを開けて入ってくるのが見えた。

涼介はスーツケースを引き、ひどく疲れ切った顔をしている。長い旅の疲れがありありとにじんでいた。

しかし結衣は、彼のシャツの襟元についた口紅の跡と、胸元に微かに見える引っ掻き傷を見逃さなかった。

布団を握る手がぐっと固くなって、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような痛みが走った。

結衣が起きているのに気づくと、涼介はわずかに眉を上げた。

「起こしちゃった?」

涼介は答えを待つでもなく、スーツケースを引いてクローゼットへ向かって、扉を開けて着替えを探し始めた。

結衣は深く息を吸って、涼介の背中を見つめて問いかけた。

「……篠原さんを、モルディブに連れて行ったの?」

シャツを取り出していた手が一瞬止まった。涼介は振り返り、嘲るような笑みを口元に浮かべて結衣を見た。

「なんだ?そこまで行きたいなら、俺たちのハネムーンもそこにするか?」

涼介の口調に含まれた明確な棘を受け止めて、結衣の顔からさっと血の気が引いた。

「私がどれだけ……モルディブに行きたかったか、あなたは知ってるはずよ」

「お前が行きたいからって、玲奈が行っちゃ駄目なのか?」

「そういう意味じゃない……私は、ただ……」

——あなたと一緒に行きたかったのに。

結衣が言い終わるのを待たず、涼介は苛立たしげにさえぎった。

「もういい。こっちは出張帰りで疲れてるんだ。お前と言い争う気はない」

彼は一方的に背を向けながらバスルームに入り、「バン!」と乱暴にドアを閉めて、結衣の前から姿を消した。

結衣は俯いて、血の気を失って白くなった自分の指先を見つめながら、口元に自嘲めいた笑みを浮かべた。

以前ならまだ言い返してきたのに、今では口論することさえ億劫なのだ。

涼介がシャワーを浴びてバスルームから出てきたとき、結衣はすでに着替えと身支度を終え、ドレッサーの前に座って鏡に向かって、まさに口紅を引いているところだった。

結衣は今日、深い緑色のベルベットのロングドレスを身にまとった。腰まである長い髪を下ろし、丁寧に化粧をしていた。あまりの美しさに目を奪われるほどだった。

涼介は一瞬ちらりと彼女に目をやったが、何の感情も浮かべず、すぐに視線をそらした。

涼介がコートを羽織り、家を出て行こうとしたとき、結衣は落ち着いた口調で念を押した。

「土曜日はウェディングドレスの試着日だ。今度こそ遅刻しないで」

結衣が最も嫌うのは時間を守らない人間だった。涼介と付き合い始めた理由の一つは、彼が時間を守る人だったからだ。

しかし、涼介が心変わりしてからは、他の女のために何度も結衣との約束を反故にしてきた。

涼介の口元に、侮蔑の色さえ帯びた嘲りの笑みが浮かんだ。

「心配するな」

彼が言い終わると同時に、涼介のスマホがけたたましく鳴った。わざとか偶然か、彼はスピーカーフォンにした。篠原玲奈の妙に甘ったるい声がスピーカーから流れ出した。

「社長ったら、昨日はちょっと激しすぎたんだから。おかげで、アソコがまだ痛いんだもん。ちゃんと責任取ってよ!」

涼介は喉の奥で楽しげに笑った。

「次はもう少し優しくする。後で薬を買ってくるよ」

男の声が次第に遠のいていく。結衣は手の中の折れた口紅を見つめた。その顔は無表情だった。

折れた口紅をゴミ箱に捨てると、結衣はジュエリーボックスの二段目を開けた。中にはわずかなアクセサリーしか残っていなかった。

以前は、涼介から贈られたジュエリーでぎっしり詰まっていた。優に数百点はあっただろう。

しかし、涼介の浮気が始まってから、彼に失望するたびに一つ、また一つと捨ててきたのだった。

最初はゆっくりとしたペースだったが、次第にその速度は増し、今ではほとんど残っていない。

まるで結衣の涼介への愛情のようだった。かつては溢れていた想いも、今ではすっかり冷え切って、まもなく消えようとしている。

結衣はその中から、とても細いゴールドのチェーンネックレスを手に取った。それは、二人が付き合って三年目の記念日に、涼介が贈ってくれたものだった。

ペンダントトップは猫の肉球の形をしていた。当時、結衣は猫を飼いたがっており、よくネットで猫の動画を見ていた。

このネックレスを受け取った時、結衣は本当に嬉しかった。小さな肉球を飽きることなく手に取っていじっていた。

二人は、卒業して部屋を借りたら猫を里親として迎えようと話し合い、名前まで決めていた。「モモ」と。

しかし、結局その約束が果たされることはなかった。涼介は最初、起業に夢中で、成功してからはますます忙しくなり、結衣のことさえ顧みなくなった。猫を飼うことなど、思い出すはずもなかった。

よく考えてみれば、二人の関係は、その頃からすでにおかしくなっていたのかもしれない。

涼介が心変わりするはずがないと、結衣が自信過剰だった。

結衣は込み上げてくる感情を抑え込んで、俯いてゴールドチェーンのネックレスをゴミ箱に捨てた。そして、ジュエリーボックスの蓋をゆっくりと閉じた。

箱の中に残されたジュエリーは、あと五つだけだった。

立ち上がってコートを羽織ると、結衣はバッグを持って家を出た。

法律事務所に着くと、同僚がすぐに寄ってきて、また一つ裁判に勝ったことを祝福した。

「汐見先生、おめでとうございます!」

「汐見先生、今月で六件目でしょう?流石にうちの負け知らずのエースですね!」

「恋愛のほうは色々あるみたいですけど、そのぶん仕事は絶好調ってことですね!」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、隣にいた同僚が慌ててその人の袖を引いて、目配せをした。

先ほどまで賑やかだった空気が一瞬で凍りついた。その場にいた者たちは顔を見合わせて、気まずさから誰もが結衣の顔をまともに見られなかった。

事務所の誰もが、結衣と涼介の近々の結婚を知っていた。中には、涼介と秘書の篠原玲奈が陰で親密な関係にあることに気づいている者もいたが、これまで誰も結衣の前でその話題に触れたことはなかった。

先ほど発言した同僚も失言に気づいて、慌てて結衣に謝った。

「汐見先生、すみません、今の、他意はなかったんです!気にしないでください……」

結衣の顔は少し青ざめて、ブリーフケースを握る手にゆっくりと力が入った。なんとか笑顔を絞り出して言った。

「大丈夫よ。今夜は私のおごりで銀座楼で祝賀会を開きましょう。皆さん、時間空けておいてくださいね!」

皆は慌てて同意し、冗談を言って場を和ませて、この気まずい一件はそれで収まった。

結衣は自分のデスクに戻り、パソコンを開いて整理した案件資料をファイリングして、案件の総括報告書を書き始めた。

しかし、二時間以上経っても、書けたのはほんの数行。思考はとっくにどこかへ飛んで行ってしまっていた。

夕方、結衣は事務所の十数人と共に銀座楼へ入った。

窓際の席に座る二つの見慣れた影。結衣がそちらを見た時、ちょうど涼介の冷淡な視線とぶつかった。

結衣は息を呑んだが、次の瞬間には相手はもう視線を外して、笑いながら、傍若無人なように玲奈にデザートを食べさせ続けていた。

結衣の同僚たちの前でさえ、涼介は少しも彼女の体面を保とうとはしなかった。

結衣と親しい同僚の中には、すでに顔色を変え、怒りを露わにして、結衣のために抗議しに行こうとする者もいた。

結衣はその同僚を引き止めて、落ち着いた声で言った。

「大丈夫。個室へ行きましょう」

同僚は顔に怒りを浮かべながら、振り返って何か言おうとしたが、結衣の無理やり笑った顔を見て言葉を失った。

結局、何も言えず、結衣に引かれるまま個室へと向かった。

恋愛のことは、当人同士にしか分からない。結衣が平穏な見せかけを維持したいのであれば、周りが口を挟む資格はない。

料理を注文し終えると、結衣は席を立って化粧室へ向かった。

化粧室に入ろうとした時、中から同僚たちが話している声が聞こえてきた。

「さっき見間違いじゃなかったわよね?汐見先生の彼氏、先生の目の前で他の女にデザート食べさせてたわよ。クズ男そのものじゃない!」

「私も見たわ。本当に、あんなクズ男のどこがいいのかしらね。汐見先生はあんなに綺麗なんだから、彼と別れたっていくらでも相手は見つかるのに」

「まあ、それは当人同士の問題よね。汐見先生、普段は案件処理であんなに冷静で決断力があるのに、恋愛に関してはどうして男を見る目がないのかしら……」

残りの言葉は聞こえなかったが、大体の内容は想像がついた。

実は、彼たちの言う通りなのだ。ただ、これからの人生に二度と涼介がいないことを思うたびに、心臓が締め付けられるような痛みに襲われるのだった。

いつの間にか、結衣も慣れてしまっていた。

涼介の冷淡さに慣れて、彼の体についた他の女性の香水の匂いに慣れて、傷口がゆっくりと癒えていく過程にも、もう慣れてしまっていた。

化粧室の入口まで来た時、結衣の足が突然、ぴたりと止まった。まるでその場に釘付けにされたかのように、身動き一つできなくなった。

少し離れた場所で繰り広げられている光景が、容赦なく彼女の目を刺した。

玲奈が洗面台に腰掛け、涼介が彼女の腰を強く抱き寄せていた。

結衣に背を向けたまま、二人は傍若無人なようにキスを交わしていた。

以前は、涼介がどれだけ遊び歩いても、結衣の目の前で他の女性と親密な素振りを見せることは決してなかった。

しかし今日、彼はそれをした。

涼介の背中を見つめながら、結衣は胸にぽっかりと穴が開き、そこから絶えず冷たい風が吹き込んでくるように感じた。

涼介、どうしてそんなに酷いことができるの?

あまりに夢中になっていたため、涼介は少し離れた場所に立つ結衣に気づきもしなかった。

もっとも、気づいたとしても、彼にとっては痛くも痒くもないことだろう。

どうせ、彼女が傷つくかどうかなど、彼はとうに気にしなくなっていたのだから。

鏡には、絡み合う二人の姿と、そして、紙のように真っ白で、この上なく惨めな結衣の顔が映っていた。

馬鹿馬鹿しい。

先に結衣に気づいたのは玲奈だった。慌てて涼介を押し開けた。

「社長……汐見さんが……」

玲奈は頬を紅潮させ、アーモンド形の瞳は不安げに揺れて、潤んでいた。

彼のキスで潤んだ桜色の唇は深く赤らみ、まるで熟したばかりの果実のように、摘み取られるのを誘っているかのようだった。

「構うな」

「社長……んっ……」

残りの言葉は、涼介の唇にすべて飲み込まれていった。

どれほどの時間が経ったのか、ようやく涼介は玲奈を解放した。洗面台から抱き下ろすと、彼女のスカートの乱れを直してやって、その体を抱き寄せて外へと歩き出した。

結衣のそばを通り過ぎる時、彼は嘲るように眉を上げた。

「まだ見足りないか?なら今夜、玲奈を連れて帰って、思う存分見せてやろうか?」

結衣は顔を上げて彼を見た。涼介の白黒はっきりとした瞳には嘲りだけが浮かんで、かつての優しさの欠片も見つけられなかった。

「涼介、彼女とプライベートでどうしようと構わない。でも、お願いだから……私の目の前に連れてこないでくれる?お願い……」

結衣は、自分がこれ以上いつまで耐えられるのか、本当に分からなかった。

二人がかつて誓い合った未来は、今ではもう、結衣一人だけが実現を夢見ている幻のようだ。

涼介は気のない様子で笑いながら、玲奈の顎を掴んで、その唇に再び軽くキスをした。

「もう耐えられないか?耐えられないなら、いつでも婚約解消を申し出ればいい。別れを切り出してきてもいいんだぞ」

結衣は俯いて、何かを言おうとしたが、その視線が不意に止まった。

玲奈の華奢な手首に光る、チューリップモチーフのゴールドブレスレット。

――そのデザインも、精巧な作りも、見間違えるはずがない。かつて涼介がただ一人、結衣のためだけにデザインし、特注してくれたはずのブレスレットと、寸分違わないのだ。

結衣の視線に気づくと、玲奈は慌ててブレスレットを手で覆い隠し、その目にも動揺が走った。そして無意識に涼介の後ろに隠れようとした。

涼介は玲奈を自分の背後にかばいながら、結衣を見下ろすように言った。

「玲奈をそんなに見つめて、どういうつもりだ?」

結衣の瞳がわずかに赤くなった。

「涼介、どうして篠原さんに全く同じブレスレットを贈ったの?あれは私だけの、特別なものだって言ったじゃない」

「玲奈がお前のを見て、すごく気に入ったって言うからな。それに、たかがブレスレットだけじゃないか。いつからそんな些細なことにこだわるようになったんだ?」

涼介の眉間にはあからさまな苛立ちが浮かんで、まるで取るに足らない些細なことを話しているかのようだった。

結衣の目に信じられないという色が浮かんだ。

「でも、昔これをくれた時、あなたは確かに言ったわ……」

言葉が終わる前に、涼介は眉をひそめて遮った。

「結衣、いい加減、過去にこだわるのはもうやめろよ。『昔』だって、自分もわかってるんだろう」

涼介が最も嫌うのは、結衣が昔の話を持ち出すことだった。それは、何度も事業に失敗した惨めな自分と、あの暗くみじめな時代を思い出させるからだ。

当時は結衣が彼に寄り添って、彼のすべての無様な姿や挫折を知っていた。

だからこそ、事業が成功した後、彼は二度とあの苦しい日々を思い出したくなくなり、結衣に対しても次第に嫌悪感を抱くようになっていったのだ。

結衣は彼を見つめた。その瞳には悲しみが湛えられ、まるで今にも砕け散りそうな、儚いガラス細工のようだった。

「ということは、約束なんて、簡単に反故にしていいってこと?」

涼介は冷たく彼女を見た。

「お前と結婚すると約束した。だからお前が嫁ぎたいと言うなら、俺も同意した。これ以上、どうしろと言うんだ?

結衣、俺がお前に負い目を感じることがあるとすれば、それはもうお前を愛していないこと、それだけだ。だが、誰を愛するのが俺の勝手だろう?それすら許されないとでも言うのか?」

結衣がまばたきすると、涙が頬を滑り落ちた。

ああ、そうか。男の心が変われば、かつての誓いなど、もろい砂の城と同じ。風が吹けば、あっけなく崩れてしまうものだったのか。

彼は、愛せなくなったなら、それで終わりだ。けれど、結衣は?

置き去りにされた結衣はどうすればいいのだろうか?

どうすれば、愛し合った日々を忘れられる?

どうすれば、彼の心変わりを受け入れられる?

どうすれば、彼を、そして彼女自分を、許すことができるのだろう?

結衣が青ざめた唇を噛みしめて黙っているのを見ると、涼介は何のためらいもなく玲奈を抱き寄せて立ち去った。

結衣は充血してヒリヒリと痛む目をしばたたかせて、その場にただ長い間立ち尽くしていた。

ようやく気持ちをなんとか落ち着けて、ゆっくりと振り返って個室へ戻った。

深夜まで、食事会は続いた。

結衣はレストランの入口で最後の同僚を見送ってから、車で家路についた。

家に着き、ドアを開けると、中は真っ暗だった。予想通り、涼介は帰っていなかった。

脳裏に、彼が玲奈を洗面台に押しつけて、キスをしていた光景が焼き付くように浮かび、胸の奥がじりじりと細かく痛んだ。

結衣はぎゅっと目を閉じて、込み上げる涙を無理やり押し戻した。

ドレッサーの前に進み、ジュエリーボックスを開けて、中からあの翡翠ブレスレットを取り出した。

かつては見るたびに甘やかな幸福感をくれたはずのこのブレスレットが、今では視界に入るだけで、胸の奥にくちくとした痛みが込み上げてきた。

もう「特別」なものではないのなら、持っている必要もない。

苦い笑みを唇に浮かべて、結衣はそっと手を離した。

ブレスレットは重力に従うまま空中を滑り落ちて、下のゴミ箱の中に「ドン」と鈍い音を立てて落ちた。

その音は、あたかも、玲奈が同じブレスレットを着けているのを目にした瞬間の衝撃で止まった結衣の心臓――その失われた一拍に、皮肉にも取って代わるかのようだった。

それから数日間、涼介は帰ってこなかった。結衣は毎日、土曜日のウェディングドレス試着のことを念押しするメッセージを送ったが、彼からの返信はなかった。

土曜日の朝、結衣が起床して身支度を整え、ドレッサーの前で化粧をしていると、涼介から短いメッセージが届いた。

【ドレスショップにいる】

ドレスショップに駆けつけると、涼介の隣には、彼の腕に甘えるようにぴったりと寄り添う玲奈の姿があった。結衣の眼差しが、思わず鋭く冷たくなった。

「涼介、今日は私たちがウェディングドレスを試着する日よ。彼女を連れてきてどういうこと?」

涼介は平然としていて、何がおかしいのか全く分かっていない様子だった。

「試着が終わったら、彼女と提携の話をしに行くことになってるんだ。こんな些細なことで騒ぐなよ」

「些細なこと?あなたにとっては、これは本当にただの些細なことなの?」

二人のウェディングドレス試着の日に、彼は愛人を連れてきて結衣に屈辱を与える。もしかしたら結婚式当日にも、玲奈を呼ぶつもりなのだろうか?

玲奈は涼介の腕からするりと手を離して、少し慌てたふりを見せた。

「社長、だからあたしは来るべきじゃないって言ったじゃないですか……やっぱり先に会社に戻って……試着が終わったらまた……」

「その必要はない」

涼介は結衣に向き直り、その声は、ぞっとするほど冷たかった。

「結局、試着するかしないか?俺は忙しいんだ。ここでお前に付き合う暇はない」

結衣は彼をよく知っていた。彼がこのように眉根を寄せ、目を伏せるときは、苛立ちが頂点に達している表現だ。

もし今、「試着しない」と言えば、彼は間違いなく躊躇なく背を向けて立ち去るだろう。

もう何も言わず、結衣はただ無言で振り返って、ドレスショップの中へと足を踏み入れた。

店に足を踏み入れると、店員がすぐに完璧な笑顔で迎えてくれた。

結衣の後ろにいる涼介と、その隣にぴったりと寄り添う玲奈の姿を認めると、店員の目に一瞬、当惑の色がよぎったが、すぐにプロの笑顔を顔に貼り付けた。

「長谷川様、汐見様、おはようございます。先日オーダーいただいたウェディングドレスが届いております。汐見様、ご試着にご案内いたしますね」

結衣は以前、デザインを少し学んだことがあった。

このウェディングドレスのデザイン画は、著名なデザイナーの指導を受けながら、半年かけて完成させたもので、彼女の想いと多くの心血が注がれていた。

しかし、結衣のささやかな期待はすべて、玲奈の姿を見た瞬間に無残にも打ち砕かれていた。しかし今はただ、この屈辱的な場を耐えて、やり過ごすしかない。

結衣は力なく頷いた。

「ええ」

店員についてウェディングドレスのエリアへ行くと、結衣はすぐに、自分のドレスが展示ホールの真ん中に飾られているのを目にした。

ドレスはビスチェタイプだ。上半身は繊細なチュールの上に、フランス刺繍で結衣の一番好きなチューリップが立体的にあしらわれ、まるでレースから香り立つように咲き誇っている。

ウエストには銀河の星屑のように細かいパールが一列に嵌め込まれ、スポットライトの下で繊細な輝きを放っている。

スカートの前部分は上質な光沢を放つサテン地、後ろはサテンとレースを重ねた優美な三層のトレーンが、軽やかでありながら完璧なフォルムを描き出している。

今の状況さえ忘れ、結衣はしばしそのドレスから目を離すことができなかった。

「汐見様、こちらのドレスは今朝届いたばかりなのですが、大変ご好評で、ご覧になったお客様がみんな試着を希望されるほどなんですよ。汐見様ならきっと素晴らしくお似合いになります」

玲奈もそのドレスを目の当たりにして、隠しきれない驚きと嫉妬の色を目に浮かべた。まるで当然のように会話に割って入った。

「うわ、本当に綺麗! 以前から汐見さんのドレスはご自身でデザインされたって伺っていましたけど、本当に素晴らしい才能でいらっしゃるんですね!ねえ、社長?」

玲奈のねっとりとした甘い声が耳元で響き、結衣は胃の腑が捩れるような嫌悪感を覚えた。

振り返って何か言い返そうとした瞬間、涼介がとろけるように優しい顔で玲奈を見つめながら、慈しむようにその頭を撫でているのが視界に入った。

「君もなかなかだ。でなければ、俺の秘書にはなれなかったさ」

玲奈は媚びるように彼を軽く睨んだ。

「もう、またからかって」

その瞬間、結衣の中で何かがぷつりと切れて、何も言う気が失せてしまった。

これ以上、何が言えるというのだろう?

玲奈がここまで厚顔でいられるのも、結局は涼介が彼女に絶対的な後ろ盾を与えているからなのだ。

隣にいた店員も、明らかに初めてこのような修羅場に遭遇したようで、どうしたものかと恐る恐る口を開いた。

「汐見様……ドレス、ご試着なさいますか?」

結衣はゆっくりと振り返って、平気な顔で答えた。

「はい」

店員は慎重にドレスを取り外して、結衣を試着室へ案内した。

ドレスの後ろにはレースと編み上げがあるため、着付けはやや複雑で、着終わるまでに十分以上かかった。

結衣は元々、雪のように白い肌と目鼻立ちの整った顔立ちを持っていて、水面に咲き誇る白蓮のように清らかでいて、どこか人を惑わす艶やかさも秘めた女性だった。

それほどの魅力がなければ、かつて涼介が一目惚れすることもなかったはずだ。

ウェディングドレスを身にまとった結衣は、思わず誰もが息をのむほどの美しさだった。

店員はスカートの裾を丁寧に整えながら言った。

「汐見様、もし私が男性でしたら、絶対にあなたに夢中になったでしょうね」

結衣は俯いて、無理やりに微笑んだ。

「ありがとう」

結衣の沈んだ様子を察して、店員は心の中でそっとため息をつき、それ以上声をかけることは控えた。

試着室のカーテンが開けられた時、涼介は手元のスマホに視線を落とし、LINEで取引先のメッセージに返信しているところで、玲奈の姿はいつの間にか消えていた。

隣の店員が彼に声をかけた。

「長谷川様、汐見様のドレス、お着替え終わりました」

涼介は億劫そうに顔を上げて、ほんの一瞬だけ結衣の姿に目をやった。

「まあ、普通だな」

吐き捨てるような、あまりにも無関心な一言。彼は本気でそう思っていた。

今の彼にとって結衣はもう何の感情も抱かないただの他人であり、たとえ彼女が今、裸で目の前に立っていたとしても、心が動くことは決してないだろう。

結衣の胸に、鈍い痛みを伴う失望がじわりと広がった。

付き合って最初の年、まだ何もかもが輝いて見えた頃、二人は結婚式でどんなドレスを着るか夢中で話し合ったことがあった。

涼介は、結衣は何を着ても一番綺麗だと言った。

「結衣がドレスを試着する時には、きっと感動して涙ぐむだろう。だって、ついに結衣を自分の妻として迎えられるのだから」とも熱っぽく語っていた。

けれど、そんな甘い言葉は、彼はもう欠片も覚えていないのだろう。

八年間という時間は、確かに長かった。彼が心変わりするのに十分なほど長かった。

そして、かつて深く愛したはずの人間を、心の中から跡形もなく消し去ることさえできてしまうほど長かった。

二人の間の気まずい空気を察した店員が、とりなそうと声をかけようとした瞬間。向かいの試着室のカーテンが開いて、そこにはウェディングドレスをまとった玲奈が立っていた。

彼女は唇の端に笑みを浮かべながら、堂々としている様子で涼介を見つめていた。

「社長、まさかあなたが選んでくださったドレスがこんなにぴったりだなんて。ね、どうかしら?」

涼介は笑みを浮かべて結衣を見つめていた。

「すごく綺麗だ。よく似合ってるよ」

二人は少し離れて見つめ合って、視線には隠しきれない愛情を溢れていた。

本来なら結衣と涼介が主役のはずなのに、篠原玲奈の登場で、まるで結衣の方が場違いな存在のようだった。

結衣はドレスの裾を強く握りしめた。頭の中で、理性の糸がぷつりと切れる音がした。

結衣はスカートの裾を持ち上げ、ゆっくりと玲奈に向かって歩いて行った。

結衣が近づいてくるのを見て、玲奈は唇の端をさらに吊り上げた。

「汐見さん、あなたのドレス、本当に素敵ね。見ていたら、私もなんだか無性に試してみたくなっちゃったの……あなたは気にしないわよね?」

「パン!」

結衣はためらわず手を上げ、玲奈の頬を張った。そして、ゆっくりと言い放った。

「これで、私が気にするかどうかわかったでしょうね」

涼介の顔色が変わった。

「汐見結衣!なんてことをするんだ!」

涼介は慌てて駆け寄って、結衣を乱暴に押しのけると、すぐに玲奈の顎を持ち上げ、彼女の顔に怪我がないか心配そうに覗き込んだ。

その一方で、彼に突き飛ばされた結衣は、大きく広がったドレスの裾と8、9センチものハイヒールで足元がおぼつかなかった。ぐらりと体勢を崩すと、足首を嫌な角度に捻り、受け身も取れずに床へと倒れ込んだ。

足首に鋭い痛みが走った。しかし、それは心の痛みに比べれば物の数にも入らなかった。

かつては、結衣が涙を一滴こぼすだけで胸を痛めた涼介が、今では他の女のために、結衣を押してしまった。

涼介は床に倒れたままの結衣には一瞥もくれず、玲奈の赤く腫れた頬に痛ましげな視線を落として、眉をひそめて低い声で言った。

「病院に連れて行くよ」

玲奈はふるふると首を横に振って、顔のジンジンとした痛みをこらえて訴えた。

「社長、あたしは大丈夫。後で少し氷で冷やせばきっと治まるわ。それより、11時には大事な打ち合わせがあるんでしょ?遅れるわけにはいかないわ」

そんな玲奈の健気な様子に、涼介の中で結衣に対する怒りがふつふつと湧き上がった。

涼介は振り返ると、床にみっともなく座り込んでいる結衣を、冷ややかな視線で見下ろして言った。

「謝れ!」

結衣は静かに彼を見上げながら、落ち着いた表情で答えた。

「どうして私が謝らないといけないの?」

「理由もなく人を殴っておいて、謝罪の一言もないのか?汐見結衣、いつからそんな、見境もなく騒ぎ立てる女になったんだ」

彼は声を荒らげて、結衣を睨みつける瞳は怒りに燃え、その奥には結衣へのかすかな失望の色が浮かんでいた。

結衣は足首の激痛に顔をしかめながらも、歯を食いしばって、毅然と立ち上がり、彼をまっすぐに見据えた。

「涼介、私が変わったって言うの?じゃあ、あなたは変わっていないとでも言うの?」

涼介は一瞬言葉に詰まった。彼が何か言う前に、隣にいた玲奈がすかさず彼の腕を掴んで、いかにも申し訳なさそうな表情で口を挟んだ。

「社長、どうか汐見さんを責めないで。全部あたしのせいだ!

もしあたしがドレスを試したりしなければ……本当にごめんなさい」

涼介は優しく彼女の目尻の涙を指で拭って、なだめるように言った。

「君のせいじゃない。君が謝ることなど何もない。謝るべきはあいつだ」

結衣は笑おうとしたが、瞳は赤く染まっていた。

八年間一緒にいて……あと一ヶ月で結婚するというのに、彼の口からは、自分はただ『あいつ』として片付けられてしまうのか……

彼の冷たい横顔を見つめながら、結衣は、彼は本当に自分を愛したことがあったのだろうかと、疑い始めていた。

もし愛していたなら、どうしてここまで残酷になれるのだろう?

もし愛していなかったのなら、過去のあの細やかな優しさは、一体何だったというのだろう?

玲奈をなだめると、涼介は結衣に向き直った。その眼差しは氷のように冷たく、嫌悪に満ちていた。

「もし玲奈に謝らないなら、今日のドレス試着はこれで終わりだ。結婚式も延期する」

結衣の顔から急速に血の気が引いていた。彼を見つめる瞳は絶望に染まり、まるで泣き笑いのような表情になった。

彼はどれだけ玲奈を庇うのだろう。結衣が玲奈を一度叩いたというだけで、結婚式の延期を盾に謝罪を強要するなんて。

胸が張り裂けるような痛みとは、きっとこういうことを言うのだろう。

もし今日、ここで自分が折れてしまったら、これから先、どれほどの屈辱に耐えなければならないか、彼女には想像できた。

でも、もう……これ以上、我慢したくなかった。

「いいわよ。延期したいなら、そうすればいいわ」

彼女の声は大きくなかったが、涼介と玲奈にははっきりと聞こえた。

そう言うと、結衣はドレスの裾を持ち上げ、背筋を伸ばして、片足を引きずりながら試着室へと向かった。

結衣の後ろ姿を見て、涼介の眉が険しく寄せられ、その瞳は暗く沈んでいた。

玲奈がそばで、おそるおそる声をかけた。

「しゃ……社長、あたし、何かまずいことしちゃった?」

聞こえなかったのか、それとも別の理由か、涼介は答えなかった。

ウェディングドレスを脱ぐ時、結衣の痛々しく腫れ上がった足首を見て、店員が驚きの声を上げた。

「汐見様、まあ、足が腫れていますね。すぐに氷を持って来て、冷やしますね」

結衣は俯いて、目頭が不意に熱くなった。

まさか、数回しか会ったことのないドレスショップの店員が、自分の婚約者よりも気遣ってくれるなんて。

一人の男のために、こんなボロボロになって、本当に意味があるのだろうか?

結衣は唇をきゅっと結んで、なんとか店員に微笑みかけた。

「……ええ、ありがとう」

「いいえ、とんでもないです。当然のことですよ」

店員はドレスをハンガーに掛け直して、氷を取りに行こうとした時、ふと床で何かが光るのに気づいた。

しゃがんで拾い上げると、それは先ほどまで結衣が手首に着けていた六芒星のブレスレットだった。

店員は慌てて言った。

「汐見様、ブレスレットが落ちていましたよ」

着替えの途中だった結衣は、その声に振り返った。

ブレスレットを見た瞬間、結衣の瞳がかすかに揺れた。

「もう切れてしまって、着けられないから。悪いけど、捨てておいてくれる?」

それは、付き合って三年目の誕生日に、涼介が贈ってくれたプレゼントだった。ブレスレットには二人のイニシャルと、その後に永遠を意味する英単語が刻まれていた。

結衣はずっと大切に扱ってきたのに、今日、突然切れてしまうなんて。

以前の結衣なら、きっとひどく悲しんで、悪い予兆だと感じただろう。

でも今は……切れてしまったのなら、もうそれでいい……

店員は、このブレスレットは高価なものだし、修理できるはずだと言いかけたが、結衣の青白い顔を見て、しばらくためらった末、口をつぐんだ。

ドレスを掛け終えると、店員はブレスレットを持って試着室を出た。

ゴミ箱のそばまで行き、店員がブレスレットを捨てようとした、その時。すぐそばから冷たい声がした。

「おい、お前が手に持ってるものは何だ?」

店員はビクッと飛び上がって、振り返ると涼介の氷のような顔があった。慌てて答えた。

「は、長谷川様、こちらは汐見様のブレスレットです。ドレスをご試着中に切れてしまったそうで、もう着けられないから捨ててほしいと頼まれました」

涼介の目に冷たい光が宿った。それが以前自分が結衣に贈った誕生日プレゼントであることは、もちろん分かっていた。

彼が玲奈に全く同じブレスレットを贈ったからって、彼女はわざと自分があげたブレスレットを捨てて、それで謝らせようとしてるってことか。

彼は目を細め、周囲の空気がぴんと張り詰めた。

「よこせ……」

言い終わらないうちに、玲奈の甘い声が後ろから聞こえてきた。

「社長、着替え終わったわよ」

涼介の宙に伸ばされた手がぴたりと止まって、すぐに何事もなかったかのように引っ込められた。彼は玲奈に向き直り、その眼差しは打って変わって優しくなった。

「じゃあ、行こうか」

「やっぱり、汐見さんに一言挨拶してから行かない?ところで、さっき店員さんと何を話してたの?」

「何でもない。彼女を待つ必要はない」

玲奈は疑わしげに店員を一瞥したが、それ以上は尋ねなかった。彼女は涼介の性格をよく知っていた。彼が話したくないことをしつこく聞けば、彼を苛立たせるだけだと知っているからだ。

ここ数年、玲奈はこのことを利用して、涼介と結衣の間に数々の不和を生み出してきたのだ。

結衣が着替えを終えて試着室から出てくると、涼介と玲奈はちょうど店を出るところだった。

視界の端に、二人が並んで去っていく後ろ姿が映った。結衣の手がゆっくりと固く握りしめられたが、顔には何の表情もなかった。

以前、どこかでこんな言葉を見たことがある。

失望が限界に達したとき、人は離れていくものだ。

結衣は思った。涼介への失望も、もうほとんど、限界に近づいているのかもしれない、と。

詩織がドレスショップに足を踏み入れた時、結衣は店内のソファに座ってドレスのカタログを静かに眺めていて、その横顔は気品があり優雅だった。

店内を見回したが涼介の姿が見えず、詩織は眉をひそめて結衣に近づいた。

「長谷川はどこ?」

「帰ったわ」

その言葉に、詩織は不満そうな表情を浮かべた。

「あいつ、結衣をここに放っておいて帰った?」

結衣は俯いて、指で無意識にカタログのドレスの写真をなぞったままで、何も言わなかった。

そんな結衣の様子を見て、詩織はイラつきと心配が混じった気持ちになって、話題を変えた。

「ドレスの試着はどうだった?」

「すごく気に入った。写真も撮ったわ」

「見せて」

写真を見た瞬間、詩織の目がぱっと輝いた。

「これ、すっごく綺麗じゃない!それに、結衣に本当によく似合ってる。将来私が結婚する時、結衣も私にウェディングドレスをデザインしてね!」

結衣の唇の端がかすかに上がった。

「ええ、いいわよ」

「ふふっ!」

詩織は写真を拡大してうっとりと眺めながら言った。

「本当に、長谷川みたいなクズ男にはもったいないわ。あいつ、前世でどんな徳を積んだら、結衣みたいな綺麗な奥さんをもらえるわけ?」

結衣の口元の笑みが苦いものに変わった。本当は、彼だって本当は結婚なんてしたくないんだ。結衣がどうしても嫁ぎたいと言い張っただけだ。

詩織は、今日の結衣が以前にも増して口数が少ないことに気づき、眉をひそめてスマホを置いて、心配そうに結衣を見た。

「結衣、長谷川とまた喧嘩したんでしょ?」

結衣は詩織に心配かけたくなくて、小さく首を横に振った。

「ううん、ただドレスの試着で少し疲れただけ」

「まだこれからよ。結婚式当日は、何着も着替えなきゃいけないし、お酌して回ったり……そうだ、結衣、実家の人たちは招待するつもり?」

「実家」という言葉を聞いて、結衣の手が無意識にぎゅっと握られた。

「まだ考えてない」

「まあ、その話はやめましょう。どうせ招待状はまだ出してないんだし、もう少し考えてみたらいいわ」

結衣は小さく「うん」と頷いた。もう、結婚式が予定通り行われるかどうかさえ、結衣には分からなくなっていた。

今日の出来事を経て、結衣はもう……それほど涼介と結婚したいとは思わなくなっていたのかもしれない。

詩織がブライズメイドのドレスを試着し終えて、帰ろうとした時、結衣の足が赤く腫れていることに気づいた。

「足、どうしたの?」

「ハイヒールで歩いてる時に、うっかり捻っちゃって」

詩織は心配そうに眉をひそめた。

「ちょっと腫れが酷くない?病院に行こう」

結衣は軽く首を横に振った。

「大丈夫よ、そんなに弱くないから。帰って薬を塗って、数日休めば治るわ」

「結衣、最近自分に無頓着すぎない?大学の頃なんて、注射一本打つのにも涼介にそばでなだめてもらってたじゃない。あの頃の方がよっぽど弱かったわよ!」

結衣は一瞬ぽかんとしたが、すぐに苦笑した。

確かに大学時代の結衣は甘えん坊だったかもしれない。しかし、それは涼介が結衣を心から好きで、たっぷり甘やかしてくれるという前提があってのことだ。

今や、彼の寵愛と愛情はすべて、別の女性に向けられている。結衣が以前と同じように振る舞えば、彼にとってはただの「わざとらしくて面倒な女」としか思わないのだろう。

帰り道、詩織は薬局で腫れ止めの薬を買って、結衣を家まで送った。「ちゃんと薬、塗るのよ」と念を押して去っていった。

リビングに一人きりになると、朝のドレスショップでの出来事がまざまざと脳裏に蘇って、結衣の瞳から次第に光が消えていった。

ドレスショップで気まずい別れ方をして以来、涼介は一度も帰ってこなかった。

結衣も、以前のように必死に電話をかけたり、LINEでしつこくメッセージを送ったりすることはなかった。二人とも、意地を張って相手が先に折れるのを待っていた。

二人の冷戦が十日目に入った日、結衣はまた一つ、ジュエリーを捨てた。

今回は、もうそれほど辛くはなかった。

もしこのまま膠着状態が続き、結衣が完全に彼に失望した。別れる決心を固めることができるのなら、それも悪くないかもしれない。

なぜなら、期待を抱いては、それが何度も打ち砕かれるという感覚を、もう二度と味わいたくなかったからだ。

午後、詩織が商談を終えたその足で、結衣のところに寄った。

「結婚式の準備、どうなってる?何か手伝うことある?結婚式まであと一ヶ月しかないのに、招待状もまだ出してないし、涼介の方もさっぱり何の動きもないみたいだけど?」

詩織は二人の将来を全く楽観視していなかったが、結衣は詩織にとって一番の親友だ。

結衣がどうしても涼介と結婚すると言い張るのなら、詩織も今はただ祝福するしかなかった。

結衣はぐっと唇を引き結んで、俯いて口を開いた。

「結婚式、延期になるかも……」

「延期?!」

詩織の声が急に甲高くなって、みるみる顔色も険しくなった。

「まさか、長谷川のやつが心変わりしたの?」

「そうじゃないの。ただ、最近喧嘩して」

「酷い喧嘩なの?」

普段の、涼介に対する結衣の我慢強さを考えれば、ただの口喧嘩くらいで結婚式を延期するほど深刻な事態になるとは到底思えなかった。

「まあ、そんなところ」

詩織はため息をつき、何か言おうとしたが、ふと視界の端、ゴミ箱の中にあの翡翠ブレスレットがあるのが目に入って、信じられないと目を見開いた。

「結衣、長谷川と一体何を喧嘩したの?この翡翠ブレスレットまで捨てちゃうなんて。あいつ、このブレスレットを手に入れるために、相当苦労したはずでしょう?」

結衣が一時期体調を崩して、夜もよく眠れない日が続いたことがあった。病院で検査しても何も異常は見つからなかった。

涼介は心配でたまらず、誰かから、由緒あるお寺で翡翠ブレスレットをいただいて身に着けると睡眠が改善される、と聞きつけた。

彼はわざわざ仕事を休み、自ら国内の有名なお寺まで赴いて、このブレスレットを授かって帰ってきたのだ。

その後、結衣は一年以上それを身に着けて、非常に大切にしていた。詩織が少し触ろうとするのさえ嫌がったほどだ。

まさか、あの結衣がそのブレスレットを捨ててしまうなんて。

結衣は俯いてゴミ箱を一瞥したが、何の表情も浮かべていなかった。

「何でもないわ。結婚式のことは、時期が決まったらまた連絡するね」

結衣の顔色がすぐれないのを見て、詩織もそれ以上は追及せず、ひとつため息をついて立ち上がった。

「分かったわ。私も他に用事はないから。何か手伝うことがあったら、いつでも電話してね」

「ええ」

……

三日後の夕方。結衣が夕食の準備をしていると、突然、同僚から電話がかかってきた。

「汐見先生、あなたのお友達が、婚約者の秘書さんとレストランで喧嘩してます!」

その瞬間、指先に突然、鋭い痛みが走った。見下ろすと、うっかり手を切ってしまったらしく、人差し指からぷくりと血の玉が滲み出ていた。

結衣は取るものもとりあえず場所を尋ねて、傷口にさっと絆創膏を貼ると、急いでタクシーを拾って現場へ向かった。

結衣がレストランに到着した時、ちょうど入口で涼介に出くわした。

彼は氷のように冷たい無表情で、結衣には目もくれずレストランに入っていった。まるで目の前にいるのが全くの見ず知らずの他人であるかのように。

結衣はひとつ深呼吸して、覚悟を決めて彼の後を追って中に入った。

店内では、詩織が腕を組んで窓際の席にふんぞり返るように座りながら、その口元には嘲るような冷ややかな笑みが浮かんでいた。

向かいの席には、ぐったりと憔悴しきった様子で、目を真っ赤に泣き腫らした篠原玲奈が座っていた。

玲奈の隣には、彼女と同じくらいの年の女性、佐藤由美(さとう ゆみ)がぴったりと寄り添って、玲奈に小声で何か話しかけながら、時折、憎々しげに向かいの詩織を睨みつけていた。

涼介がためらうことなく先にテーブルに近づくと、玲奈は彼を見るなりわっとその胸に飛び込んで、か細い声でむせび泣き始めた。

「しゃ……社長、私と由美がさっき食事をしていたら、詩織さんが突然何の断りもなく私のところにやってきて、いきなり二回も平手打ちを……」

涼介の怒りをたたえた視線がまっすぐに詩織に注がれ、地の底から響くような声で一言一言区切るように言った。

「説明してもらおうか」

詩織はふっと肩をすくめ、むしろ面白がるような嘲る表情で彼を見た。

「私もあんたに説明してほしいんだけど?どうして婚約者とウェディングドレスを試着しに行くのに、わざわざ愛人をお連れになったわけ?」

詩織はもともと、玲奈のような腹黒い女を相手にするつもりはなかった。

しかし先ほど、後ろの席で玲奈が得意げに友人に話しているのを耳にしてしまったのだ。

涼介が結衣とのウェディングドレス試着の日に玲奈を連れて行って、玲奈にもドレスを試着させただけでなく、玲奈を優先して結衣を放っとおいた、と。

あの日の結衣の沈黙と、足首の腫れを思い返せば、詩織に分からないはずがなかった。

詩織は結衣ほどお人好しではない。玲奈に平手打ちを二発食らわせただけでも、手加減した方だった。

涼介の顔が険しくなった。

「これは俺と結衣の問題だ。お前が口出しすることじゃない」

そう言いながら、涼介は詩織の隣に現れたばかりの結衣に冷たい視線を向けて、その目にはあからさまな嫌悪感が宿っていた。

「数日くれてやれば、お前も冷静になると思ってたが、まさか相田を唆して玲奈に嫌がらせをしに来るとはな」

結衣の顔が青ざめた。

「私がわざとあの日のドレスショップでの出来事を詩織に話したとでも思ってるの?」

「でなければ何だ?そうでなければ相田がどうして知っている?お前のような性根の腐った女だから、汐見家から追い出されるのも当然だ。俺が人生で一番後悔しているのは、お前を愛してしまったことだ!」

結衣の体がふらついて、無意識に二、三歩後ずさった。今にも倒れそうによろめいた。

八年前、彼が告白した時、人生で最も幸運なことは彼女に出会えたことだと言った。

八年後、涼介は別の女のために、人生で最も後悔しているのは彼女を愛したことだと言っている。

これが、結衣が八年間も愛して、そして生涯を共に過ごそうと思っていた男なのだ。

詩織の顔色が一変して、素早く駆け寄ると涼介の頬を平手打ちした。

「あんたの良心はどこ行ったのよ?!どの面下げてそんなこと言えるの?!」

そもそも、彼と付き合っていなければ、結衣が汐見家から追い出されることもなかったのだった。

それなのに今、彼は恥知らずな愛人のために結衣にこんな言葉を浴びせるなんて、これは結衣の心をえぐるのと同じじゃない!

衝動的にあの言葉を口にした後、涼介も少し後悔し、同時に苛立ちを感じていた。

無意識に結衣の方を見ると、結衣は詩織の後ろに立って、俯いていて表情は読み取れなかった。

隣にいた玲奈が涼介の感情の変化を敏感に察知し、目を光らせると、突然前に飛び出して、詩織の顔めがけて平手打ちを狙った。

詩織は格闘技を習っていたため、玲奈が敵うはずもなかった。玲奈は逆に詩織から数発平手打ちを浴びせられた。

涼介が二人を引き離そうと間に入ったが、全く止められず、逆に顔に数か所の引っ掻き傷を作られて、ひどくみっともない姿だった。

場は一時騒然とし、最終的には店のスタッフが割って入ってようやく二人を引き離した。

詩織は特に何ともなかったが、玲奈の方は髪がぐちゃぐちゃに乱れ、両頬は明らかに腫れ上がり、見るからに痛々しい姿だった。

玲奈は悲しげに涼介を見つめながら、慰めを求めた。

「社長……」

しかし涼介は玲奈には目もくれず、ずっとその場に静かに立っていた結衣に視線を向けて、その顔は険しかった。

結衣は彼を見ず、詩織に向かって引きつった笑顔を見せた。

「詩織、行きましょう。もうここにいたくない」

結衣の血の気のない真っ白な顔を見て、詩織は胸が締め付けられた。

「ええ」

詩織は結衣のそばに歩み寄って、結衣の冷たい手を引いて外へ向かった。

帰り道、結衣は無表情で窓の外を眺めながら、何かを考えている。

詩織は何度か口を開こうとしたが、結局は思いとどまった。

車が結衣の住むマンションの前に停まって、ようやく詩織が口を開いた。

「結衣……今夜はごめん。私が一時的な衝動に駆られなければ、こんなことには……」

結衣は詩織の方を向いた。

「詩織とは関係ないわ。今日は少し疲れたから、部屋に寄ってとは言わないでおくわね。帰り、気をつけて」

「結衣……お願いだから、そんな顔しないで。見てると心配でたまらないよ……」

詩織の心配そうな目を見て、結衣は詩織に笑いかけようとしたが、それができないことに気づいて、ただ力なく首を振った。

「大丈夫よ。一晩寝ればよくなるから。詩織は帰って。私のことは心配しないで」

そう言うと、結衣は車のドアを開けて降りた。

詩織の車が走り去るのを見送ってから、結衣はようやく振り返って、マンションの建物の中に入っていった。

家に戻ってから、結衣はソファに長い間、魂が抜けたように座っていた。

玄関のドアが開く音が聞こえて、結衣はようやく硬直したように視線を上げた。

涼介がドアから入ってくると、頭上の照明が彼の端正な顔を照らし出いている。

相変わらずハンサムで、人を惹きつける魅力がある。しかし、結衣にはただ見知らぬ人のようにしか感じられなかった。

結衣は俯いて彼を見ようとせず、体の横で手をわずかに握りしめた。

涼介が結衣の向かいに腰を下ろした。しばらくの間、誰も口を開かず、針が床に落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだった。

どれほどの時間が経ったのか、ようやく涼介が口を開いた。

「結衣、今夜レストランで言ったことは、本心じゃない。気にしないでくれ」

結衣は嘲るように唇を歪めた。

本心じゃない?それとも、ついに本音が出ただけ?

それが本心か、口から出任せか、おそらく彼自身にしか分からないことだろう。

今となっては、結衣にはもう、彼のどの言葉が真実で、どの言葉が嘘なのか、分からなくなっていた。

結衣が黙っているのを見て、涼介は眉をひそめ、何か言おうとしたが、ポケットのスマホが不意に鳴った。玲奈からだった。

彼は一瞬ためらったが、結局電話に出ることを選んだ。

相手が何か言ったのだろう、涼介は険しい顔で答えた。

「すぐにそっちへ行く」

電話を切り、結衣が自分を見ているのに気づくと、涼介は唇を引き結んだ。

「玲奈が交通事故に遭ったそうだ。今から様子を見に行かなければならない」

結衣の口元に嘲りの笑みが浮かんだ。

「交通事故に遭ったのに、あなたに電話する元気があるなんて。本当に、ご苦労なことね」

涼介は眉をひそめたが、すぐに今夜レストランで自分が言った言葉を思い出し、込み上げる怒りを抑え込んで、努めて辛抱強く言った。

「結衣、そんな細かいことにこだわるのは無意味だ」

結衣はもはや失笑するしかなかった。自分の婚約者が、別の女の下手な嘘のために自分を置き去りにしようとしているのに、細かいことにこだわるなと言うなんて。

彼が立ち上がって去ろうとした時、結衣の声が背後から聞こえた。

「長谷川涼介、ここに残ってくれたら、あなたを許すわ」

涼介の足が止まって、表情も硬直した。

結衣の方を振り返って、彼は低い声で言った。

「今夜のことでお前が腹を立てているのは分かっている。だが、交通事故は些細なことじゃない。命に関わることなんだ。だからお前も……」

——少しは物分りが良くなったらどうだ。

そんな言葉が彼の口をついて出る前に、結衣は静かに彼を遮った。

「分かったわ。行きなさい。さっきのは冗談だけ」

涼介は今夜の結衣がいつもと違うことに戸惑って、これまでにない不安感が胸に込み上げてきた。

「戻ったら、結婚式の日取りについて、もう一度話し合おう」

彼のこの言葉は、なだめるつもりであり、ある意味では譲歩のつもりでもあったが、結衣は常とは異なって、何も答えなかった。

「早く行ってあげなさい」

電話口で玲奈がずっと痛がっていたことを思い出して、涼介もそれ以上何も言わず、背を向けて足早に去っていった。

玄関のドアが開き、そして閉まり、リビングは再び静寂に包まれた。

結衣は立ち上がって、ゆっくりと寝室へ向かった。ドレッサーの前で立ち止まり、手を伸ばしてジュエリーボックスを開けると、無表情で中からダイヤモンドのネックレスを取り出して、迷わずゴミ箱に捨てた。

このネックレスは、涼介が結衣に贈ったジュエリーの中で最も高価なものだった。結衣がこれをずっと大切にしてきた理由は、最も高価だからではなく、このネックレスが涼介の命を救ったからだった。

当時、涼介が出張から帰国する際、偶然このネックレスを見かけて、結衣へのプレゼントとして買おうと思ったのだ。

しかし、その時彼は手持ちの現金が足りず、国際送金に時間がかかったため、帰国便の飛行機に乗り遅れてしまった。

そして、その飛行機は、途中で墜落し、乗客乗員は全員死亡した。

結衣はずっと、彼があの時このネックレスを見つけてくれたことに感謝していた。もしこのネックレスがなかったら、結衣は涼介を永遠に失っていたのだから。

ただ、玲奈が現れてから、結衣のすべての愛は色褪せた茶番と化した。

今や、ジュエリーボックスの中に残っているのは、一つだけ。作りがどこか粗末なダイヤモンドの指輪。

この指輪は、付き合って最初の年に涼介が手作りしたものだった。

涼介が指輪を結衣の目の前に差し出した時、結衣が最初に見たのは、指輪の上のダイヤモンドではなく、指輪を作るために傷だらけになった涼介の手だった。

結衣に指輪をはめながら、彼はいつか、もっと大きくて綺麗な指輪と交換すると約束した。結衣は、何と交換してくれても嫌だ、これがいい、と言った。

後に、彼がその指輪のダイヤモンドを買うために、丸二ヶ月間配達のアルバイトをして、さらに自ら金属を磨いて、台座を作ったのだと知った……

それを聞いた結衣は、彼を馬鹿だと言いながら、泣いたり笑ったりして、心は切なさと感動でいっぱいになった。

しかし今思えば、馬鹿だったのは結衣の方だ。

結衣は指輪を手に取って、ゆっくりと薬指にはめてみた。

かつてぴったりだった指輪が、今では一周りも大きくなっていた。

結衣は指輪を外し、ただ長い間それを見つめていた。目頭が熱くなってきて、ようやく指輪を元に戻した。

これが、彼にあげる本当に最後のチャンス。もう、次はない……

明け方、結衣はドアが開く音で目を覚ました。

ベッドサイドの時計を見ると、午前二時十六分だった。

涼介の動きはとても静かで、結衣を起こさないようにと気遣っているようだった。

もっとも、涼介が浮気をしていると知って以来、結衣の眠りは非常に浅く、ほんの少しの物音でも目が覚めてしまうようになっていた。

けれど、涼介の心はとっくに結衣のもとにはなく、そんな些細な変化に気づくはずもなかったのだ。

ちょうど結衣も今は彼と顔を合わせたくなかったので、そのまま目を閉じて寝たふりをすることにした。

涼介はクローゼットを開け、パジャマを取り出してシャワーを浴びに行った。

バスルームからシャワーの音が聞こえ、しばらくして止んだ。

バスルームのドアが開き、足音が遠くから近づいてきて、ベッドサイドで止まった。

涼介に背を向けていたものの、結衣は彼が布団をめくり、ベッドに入ってくる気配を感じた。

ベッドの片側が沈み込み、真っ暗な寝室は静まり返って、お互いの微かな寝息だけが聞こえた。

結衣はすっかり眠気を失って、心の中で羊を数えていた。

以前、夜眠れない時には、涼介が物語を読んで寝かしつけてくれたものだ。時折、未来の話もしてくれた。

事業が成功したら、大きな全面ガラス窓のある家に引っ越そう、と。

結婚式はモルディブのビーチで挙げよう、と。

将来は子供を二人、できれば男の子と女の子を一人ずつもうけよう、と。

あの頃、二人はとても貧しく、安アパートの小さなベッドで身を寄せ合っていたにもかかわらず、話は尽きなかった。

今のように、互いに言葉もなく、心が離れてしまっているとは大違いだ。

なんて悲しいことだった。

結衣は自分がいつ眠りに落ちたのか分からなかった。目が覚めた時には、もう八時近かった。

結衣の車は整備に出していて、今週の通勤は地下鉄を使うしかなかった。

家から事務所までは通勤に四十五分かかるため、普段は七時二十分には起きるのだが、今日はなぜか目覚ましが鳴らなかったようだ。

身支度を整えて寝室を出ると、涼介がスーツ姿で食卓に座って、朝食をとっているのが見えた。結衣は一瞬、立ち止まった。

涼介が最後に家で朝食をとったのがいつだったか、もう思い出せなかった。

結衣がその場に立ち尽くしているのを見て、涼介は珍しく自分から声をかけてきた。

「朝食だ、早く」

食卓には揚げパンと豆乳が並んでいた。結衣が以前、一番好きだった組み合わせだ。

以前、二人が喧嘩した翌朝は、涼介はいつも早く起きて、自らこの揚げパンと豆乳を作り、眠っている結衣を起こして「朝ご飯だよ」と声をかけるものだった。

彼の作る揚げパンは、普通の棒状ではなく、いつもハート形だった。そのハート形の揚げパンを見ると、結衣の心の中の怒りはいつも不思議と消えてしまった。

しかし、彼が浮気をしてからは、もう作ってくれることはなかった。

なぜなら、喧嘩が終わると彼はすぐに激しくドアを閉めて出て行って、結衣が自分から和解を求めるまで連絡ひとつ寄こさないのが常だったからだ。

結衣は、彼はとっくにそんなこと忘れてしまったと思っていた。

忘れてはいなかったのだ。ただ、以前のように結衣の機嫌を取るために手間をかけるのが面倒になっただけ。

心変わりとは、この世で最も簡単なことの一つなのかもしれない。

「もういいわ。仕事に遅れそうだから」

「後で送っていく」

結衣の足が一瞬止まって、少しためらった末、やはり向き直ってダイニングへと歩いて行った。

席に着くとすぐに、涼介はハート形の揚げパンを一つ、結衣の皿に取り分けた。

「久しぶりに作ったからな。腕が落ちたかも、食べてみて」

結衣は俯いて、皿の上の揚げパンをしばらく見つめてから、ようやく一口食べた。

口に入れると柔らかく、昔ながらの味だった。

ただ、ここ数年、結衣は不規則な食生活で胃の調子が悪く、目の前の揚げパンは少し油っぽすぎると感じた。

結衣が一口食べただけで箸を置いたのを見て、涼介は訝しげに眉をひそめた。

「味が変か?」

結衣は首を横に振った。

「ううん、すごく美味しいわ。ただ、今はあまり油っぽいものは食べられないの」

涼介の箸を握る手がこわばり、かすかに白くなった。ダイニングは再び静寂に包まれた。

しばらくして、彼は箸を置いた。

「油っぽすぎるなら無理して食べるな。会社まで送っていく、途中で何か買って食べればいい」

「うん」

地下駐車場に着くとすぐ、涼介のスマホが鳴り始めた。

彼は何度か着信を拒否したが、相手はしつこく、立て続けにかけて来ている。

結衣は見なくても、それが篠原玲奈だと分かっていた。

「出れば?何か急用かもよ」

涼介は結衣を一瞥して、かすかに眉をひそめた。

しかし結衣は彼の方を見ようとせず、ただ自分の靴のつま先を見つめていた。

電話はまだ鳴り続けている。涼介は観念したように最終的に電話に出た。

スマホからは低いすすり泣きと、途切れ途切れの女性の声が聞こえてきたが、結衣にははっきりとは聞き取れなかった。

ただ、電話を切った後、涼介の顔色が明らかに険しくなったのは分かった。

「玲奈の方で少し問題が起きた。すまないが、自分でタクシーで行ってくれ。送れなくなった」

そう言うと、結衣の返事を待たずに、足早に自分の車へと向かっていった。

彼にしてみれば、今朝、結衣が自分の作った揚げパンを食べたことで、昨夜の彼の言葉は許されたも同然であり、もはやこれ以上結衣に時間を費やすのは面倒だと考えたのだろう。

あっという間に視界から消えていく彼の後ろ姿を見送りながら、結衣の心は奇妙なほど静かだった。

人に期待しなければ、特別に傷つくこともないのね。

タクシーで法律事務所の前に着いた時には、すでに九時十六分だった。

事務所に足を踏み入れるとすぐ、結衣は周りの同僚たちが自分に向けてくる視線に憐れみが含まれているのをはっきりと感じた。

昨夜のレストランでの出来事は、おそらく皆に知れ渡っているのだろう。

結衣は俯きながら、無表情のまま自分のデスクに向かって、椅子に腰を下ろして仕事に取り掛かった。

ファイルを一つ処理し終えたところで、スマホが短く鳴った。詩織から写真が一枚送られてきた。

涼介が病院のベッドサイドに座り、玲奈にお粥を食べさせている写真だった。

涼介の横顔しか写っていなかったが、彼の口元には笑みが浮かび、玲奈を見つめる眼差しはどこまでも甘く、玲奈も彼を見上げ、その瞳からは愛情が溢れ出さんばかりだった。

窓から差し込む柔らかな陽光が彼らに降り注ぎ、その光景はまるで一枚の絵のように温かく、調和が取れているように見えた。

自分を会社に送る時間はないのに、病院で他の女に付き添って、お粥を食べさせる時間はあるのだ。

本当は、彼の愛があるかないかなんて、見分けるのはとても簡単だった。ただ結衣がずっとそれを認めることを拒み、見ないふりをして平穏を装うことを選んできただけだった。

結衣のスマホを握る指先がかすかに白くなった。しばらくして、ようやく詩織に返信した。

【いい写真ね】

相手側の入力中の表示が長く続いた後、最終的に送られてきたのは「……」だけだった。

結衣はもう返信せず、スマホ画面を伏せてデスクに置いて、仕事に取り掛かった。

資料を作成しようとした時、隣のデスクの同僚が突然、驚きの声を上げた。

「汐見先生、早くSNS見てください!」

結衣のキーボードを打つ手が止まって、同僚の方を見た。

「どうしましたの?」

同僚の表情はどこか気まずそうだった。

「見れば分かりますよ」

結衣はスマホを取り出してSNSを開いた。真っ先に目に飛び込んできたトレンドのトップ記事には、燃えるような赤い「話題沸騰中」のマークが付いていた。

#フロンティア・テック社長に熱愛発覚#

……

明らかに、誰もが玲奈を涼介の恋人だと認識していた。

涼介は結衣のことを公表したことがなく、ここ数年、彼のごく身近な友人以外には二人が付き合っていることを知る人はほとんどいなかった。

だから世間の目には、彼は常に非の打ち所がない理想の独身男性として映っていた。